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ルポ「座り込めここへ~名護市長選挙直前の辺野古を訪ねて~」・土田宏樹

座り込めここへ~名護市長選直前の辺野古を訪ねて~
土田宏樹

タンタンタンタン・・・タカタカタカ・・。
遠くの山のほうから聴こえてくるのが何の音だかすぐにはわからなかった。那覇空港でレンタカーを借り、辺野古へ向かっている途中である。自動車専用道路のパーキングエリアで一休みしているときだ。
「機銃掃射の音だよ。アメリカ軍の訓練場があるんだ」
朝、羽田空港の出発カウンターで落ち合ったOさんが教えてくれた。彼はこれまで何度も辺野古でゲート前坐り込みに参加している。沖縄は基地の島であること、軍隊の存在と隣り合わせに日常生活があることを実感する。那覇から辺野古までは五〇キロちょっとの距離だ。機銃掃射の音を聴いたのは、もう辺野古に近い金武町のあたり。近くには米軍のキャンプ・ハンセンがある。一九九五年に小学生の少女が三人の米軍人に暴行される事件が起きたが、犯人たちはそこの所属だった。
このうえ基地建設を許すな。その思いで一月二十三日から二十六日までの四日間、米軍キャンプ・シュワブのゲート前で座り込んだ。

ゲート前

二十三日、ゲート前に着いたのは午後二時である。前日の東京は午後から二〇cmを超す雪が降ったから、私は早朝の羽田を発つときセーターの上にジャンパーを着ていた。この服装ではこちらでは身体を動かすと汗ばむ。数日後の一月二七、二八日が名護市の桜祭り。沖縄はもう春なのだ。滞在中、カラリと晴れた日はあまりなかった。どんより曇った空から、時々雨が落ちた。
工事用車両がゲートを通過するのはたいてい午前九時・正午・午後三時の一日三回だ。その日の正午には七七台が搬入されたと聞かされる。それから朝は逮捕者が一人出た。
逮捕されたのは七八歳の元県会議員(共産党に所属)で、座り込んでいたのではなく、トラックの列に割り込んだ自分の車でノロノロ運転をして搬入を少しでも遅らせようとした。そのさい機動隊員の身体に車体が触れたとして運転席から引きずり降ろされ、公務執行妨害をとられたのだという。
三時、到着したばかりの私たちにとっては最初の座り込みに入った。なお東京から一緒に行ったのは男性四人・女性一人の五人で、このとき初めて知り合った。首都圏で運動に取り組んでいる<辺野古への基地建設を許さない実行委員会>の呼びかけに応じたのである。辺野古がある名護市は二月四日が市長選挙。基地建設反対を堅持する稲嶺進市長(当時)の選挙運動を直接応援するのではないが、座り込みの頭数に加わることで、そのぶん地元の人たちがエネルギーを選挙にまわせるようにと願った。この時期、同じように考えて全国から辺野古にやってきた人は少なくないはずである。
辺野古に滞在していたのは火曜から金曜だった。連日八〇人から一〇〇人くらいが座り込んでいた。普段は国道を挟んで基地の向かい側のテントにいる。搬入の時間が近づくとゲートの前に密集して座る。歌なんか歌っているうちに機動隊員がゲートの中から出てきて排除にかかる。両手両足を持って抱え上げ、あるいは引きずって、一人ずつゲート前から引きはがす。私たちは腰を落とし、スクラムを組んで踏みとどまろうとするけれど屈強な機動隊員にごぼう抜きされてしまう。五〇メートルほど離れた鉄柵のところまで持って行かれる。こちらからは決して手を出さない。
機動隊員はみんな若い。引き抜かれていくほうは老若男女さまざま。しかし機動隊員の祖父祖母くらいの年齢の人が多い。平日の昼間なのだから、地元も、また私たちのように県外からの参加も、仕事をリタイアした人の割合が高いのは当然だろう。私は二年前に郵便局を退職した六三歳だ。
そうして私たちをゲートの前から排除していって、車両が通過できるだけの幅を確保すると、それを待っていたダンプカーやコンクリートミキサー車がゲートを通過して基地の中に入っていく。ダンプカーには埋め立てのための砕石が積まれている。
「過積載だ!」
ゲート前からは排除されても、道端から声をぶつける。道路交通法に定められた運送重量をオーバーしているだろ!ということだ。
たしかに過積載である。同時に、トラックに山のようにてんこ盛りされてもいない。それはやりたくてもできないのだ。何が言いたいかというと、ゲート前から排除されて工事用車両の搬入そのものは止められなくとも、こうして声を上げ続けていることが、運び込まれる砕石の量に規制をかけているのである。向こうも「やりたい放題」ができているわけではない。

稲嶺候補の決起集会で

夕方、名護の市街に向かう。この夜、稲嶺進陣営の決起集会が開かれると、こちらに到着してから知ったのである。
しかし、その前に行くところがある。名護警察署だ。朝の逮捕に対する抗議行動である。
沖縄では陽が沈むの が遅く、冬至からまだ一月しかたっていないというのに、五時をまわっても明るい。警察署の前に次第に人が集まってくる。私たちのようにゲート前から向かった人も、また逮捕の報を聞いて一日の仕事を終えてやってくる人も。
「東京からよく来てくれたねえ。ゲート前ならともかく、こんな警察署まで」
中肉中背の男性が近寄ってきて手を差し出す。それがまだ保釈中だった山城博治さんだとは後で知った。マスクをしていたので、すぐにはわからなかったのだ。
「ここ、懐かしいねぇ」
とは、ご自身が高江で不当逮捕され長く勾留されていたときのことを思い出したのだろう(三月一四日に那覇地裁において威力業務妨害などで懲役二年、執行猶予三年という不当判決が出た)。
人びとの中に車椅子の老女がいる。島袋文子さんだ。いま八九歳。沖縄戦で大やけどを負い、遺体の浮いた池の血が混じった泥水を飲んで生き残った。彼女も沖縄反基地運動を象徴する一人だ。目の前で黙って立っている警備の若い警官に話しかけている。戦争が地獄であることを諄々と説いている。ときに語気が強くもなる。小雨が降ってきた。車椅子に付き添う女性が傘をさしかける。
昼間の座り込みの進行役だった大城悟さん(沖縄平和運動センター事務局長)が、署の二階にあるという留置場に届けとばかりハンドマイクで語りかけた。大きな声だ。
「〇〇さん、今夜はゆっくり休んでくれ。明日も来るから!」
それから、稲嶺進さんの三選を目指す決起集会へ向かう。名護市の中心部は道路が広く、会場の二十一世紀の森屋内運動場もドーム状の立派な建物だ。駐車場にはすでに大型バスが何台も停まっている。支持者たちが入口に長い列を作っている。
あの場にいて集会の空気に触れた者は誰もが稲嶺さんの勝利を確信したにちがいない。糸数慶子さん初め、オール沖縄の国会議員が壇上に並び、その真ん中に翁長雄志・沖縄県知事。連合と全労連の代表もここでは椅子を並べて坐っている。対立する労働組合のナショナルセンター同士。沖縄以外の都道府県では見られない光景である。
稲嶺進さんが夫人と共に入場してくる。毅然としていて風格があった。つい二日前、県内の南城市長選で政権寄りの現職・古謝景春氏をオール沖縄の瑞慶覧長敏氏が僅か六五票差で破ったばかりだ。その瑞慶覧さんも顔を見せて、稲嶺さん翁長さんとしっかり手を握りあったとき集会は最高潮に。この夜の参加者三八五〇人というのがそもそも人口六万人ちょっとの一地方都市における数字ではない。アベ政治と正面から対峙しているのが今この場なのだという思いが涌いてくる。
実際、選挙後の新聞各紙の分析記事には、投票日まで一〇日余を残すあの時点では稲嶺さんがなお優勢であったとするものも多い。対立する渡具知候補の決起集会はその二日前、参加者は二〇〇〇人ほどであった。ただ、年配に比べ若い世代が少なかったことはちょっと目についた。結果が出たあと新聞の解説記事に稲嶺陣営の「慢心」という言葉があった。そうとは思わない。しかし、あの集会の充実感から得た必勝の確信がもし気の緩みを生んだとしたら皮肉なことになってしまった。
夜遅く、民宿[海と風の宿]に着く。

海と風の宿

 

翌朝、七時前に寝床から起き出すと台所には若い女性がすでにいて、お湯を沸かしている。コーヒーを淹れてくれた。てっきり宿の娘さんだと思ったら、彼女も宿泊客である。一日前から来ているという。女性客はもう一人いて、二人は歌と踊りのデュオということであった。あちこちのライヴハウスをまわっている。最初に顔を合わしたほうがアカネさんといって踊り手。歌のほうはオチョコさんと名乗った。彼女たちとはその晩も翌晩も宿の広間で泡盛を一緒に飲むことになる。
宿とは素泊まりの契約である。二段ベッド、一泊二〇〇〇円で三泊。しかし黍(キビ)の雑炊を炊飯器に用意してあるから自由にどうぞと寝る前にあるじに聞かされた。アカネさんが味噌汁を作る。ジャガイモと何か地元の野菜の青い葉っぱが入っている。滞在しているあいだ毎朝そうだった。
二四日、ゲート前での進行役は高里鈴代さんである。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表。この人も沖縄の運動を引っぱってきた一人だ。『沖縄を返せ』という歌を歌うとき
「この歌には色々意見もあるようですが」
軽く前置きをした。

われらとわれらの祖先が
血と汗をもて守り育てた沖縄よ
われらは叫ぶ沖縄よ
われらのものだ沖縄は
沖縄を返せ
沖縄を返せ

この歌が沖縄の人びとによって歌われるならわかる。しかし本土でも歌う。そのまま歌っていいのだろうか。俺たちのものだから返せというのは、日本国が沖縄に対してやってきたことを思うなら、本土の人間はとても口にできないのではないか。高里さんが「意見がある」と言ったのはそのあたりを指しているのだろう。
その場では「沖縄を返せ」を繰り返すのではなく、二度目は「沖縄に返せ」と歌詞を変えて歌われた。
昼前、麓隆治さんがゲート前まで会いにきてくれた。私が一九七五年に東京中央郵便局に就職したとき、同じ課にいた先輩である。一〇年ほど一緒に働いてから、彼はUターン転勤で郷里の沖縄に帰った。今は郵便局を退職して嘉手納市に住んでいる。正午の座り込みのあと辺野古の集落まで二人で歩き、スーパーで麓さんが奢ってくれた弁当を店頭のベンチに座って食べながら
「沖縄は独立するべきだって言う人もいますよね」
「オレは独立論には与しないけれど、独立しようって言う議員が国会に何人かいたほうが日本の民主主義にとっていいんじゃない」
そんな問答をした。
『琉球新報』と『沖縄タイムス』は毎日必ず取材に来ていた。顔ぶれは連日替わる。若い女性の記者の場合が多かった。記者同士でにこやかに話したりしているところはあまり見かけなかったのは、二社は商売の上では競争相手ということになるからだろうか。
取材に来ているのだから座り込みに参加するのではない。しかし、工事用車両の搬入が迫り、私たちが機動隊員にごぼう抜きされていくときもずっと近くにいる。そのように記者が現場にいることが、機動隊員があからさまな暴力を振るうことの抑止になっているのは間違いない。だから、高江では<Press>の腕章を着けていたにもかかわらず記者が現場から隔離されたりしたことがあったのである。
南城市の市長選挙では落選した古謝景春氏が投開票日の翌日、くやしまぎれだろう、「相手候補の違反ビラを新報、タイムスが会社ぐるみで各戸に配布した」云々と自分のフェイスブックに書きこんだ。ところが、そのビラとは選挙管理委員会に届け出た法定ビラで、新聞に折り込んでの配布が公職選挙法で認められている。古謝氏はフェイスブックの書き込みを後で削除したそうである。座り込みの場で笑いのタネになっていたこのエピソード、沖縄の地元二紙が基地推進派からどう見られているかを示している。
座り込みを終えた後、夕方はまた名護警察署に行った。前日逮捕された人はこの夕、勾留を解かれ、私たちは拍手で彼を迎え入れる。

泡盛と餅(むーちー)

宿に戻る。玄関を上がってすぐの板敷は台所とつながっていて、朝はここで雑炊を食べ味噌汁を啜った。夜は泡盛の時間である。土地の若い人が来ていて、お湯割りのコップを傾けながら彼が言うには、今年はサトウキビが豊作なのに県内のトラックが基地埋め立ての砕石搬入に駆り出されているため収穫しても運送が滞っているとのことだった。
「基地なんかより地場の産業が大事なのに」
麓さんが別れ際、泡盛の一升パックと餅をくれたので、テーブルにそれを出すと、
「あっ、ムーチー!」
アカネさんの目が輝いた。
餅を沖縄ではムーチーと言う。ただの餅ではない。小豆色と紅色の二色になっていて葉っぱに包まれている(月桃の葉ということを後で知った)。甘い。沖縄では健康願いや厄除けとして旧暦の一二月八日にこれを食べる風習がある。新暦では一月二四日すなわちこの日であった。
二五日も一日ゲート前で過ごし、夜は宿の広間で泡盛を飲んだ。二六日の朝が私たちの座り込みの最後。午後の飛行機で東京に帰らなければならない。
前日から、ゲート前では川口真由美さんの歌声が響いていた。関西出身で辺野古にもよく来るミュージシャンだ。

沖縄の未来は 沖縄が開く
戦さ世を拒み 平和に生きるため
今こそ立ち上がろう
今こそ奮い立とう

元々は、ドゴール政権を倒したパリ五月革命(一九六八年)の中で歌われていた『美しき五月のパリ』という歌を、メロディはそのままで山城博治さんが歌詞を替えた。今、ゲート前では『座り込め、ここへ』と共に一番よく歌われている歌だろう。
彼女の歌声にあわせて、つい身体を揺すってしまう機動隊員がいたのが可笑しかった。ゲート前からごぼう抜きされて工事車両搬入が始まっても、今度は私たちは国道の端からせり出すようにしてトラックの運転席にプラカードを突きつける。「NO WAR」とか「違法な工事をやめよ」とか。機動隊員がそれを規制する。言い合いになる。
「もっと下がってください」
「いやだよ。これ以上引くもんか」
機動隊員の訛りで沖縄の若者だということがわかる。トラックの運転手だって地元の人だ。ここがつらいところだ。彼らにしても生活がある。沖縄に理不尽を強いているのは本土であり、自分は本土から来ているのだから。
その本土に戻る時間が迫ってきた。一緒に座り込んだアカネさんが、夏蜜柑を一つ取り出して、周囲に分けてくれた。彼女はその夜、那覇市内でオチョコさんとライヴをやることになっている。
「いつかまたどこかで会いましょう」
そう握手して別れた。

闘いは続く

二月四日の夜は千葉県内の自宅にいた。名護市長選挙の開票は八時からと思い、NHKにチャンネルを合わせる。大河ドラマ『西郷どん』の画面に、じきテロップが流れる。山口県知事選と長崎県のそれの速報である。どちらも、すでに当選確実が出ている。肝心の名護の速報はまだ出ない。九時前のニュースで開票作業が始まるのは九時からと知った。出口調査では稲嶺さんがややリードとも。すこしホッとしかけたが、期日前投票が異様に多かったのだ。有権者全体の四四%。ということは投票率七六・九%を勘案すると投票した人の五七・七%だ。じつに六割近くが投票日前に投票を済ませている。そうして期日前投票は企業や創価学会が動員をかけるケースが多いので稲嶺さんには不利になる。果たして、午後一一時のニュースで渡具知候補当選確実と出てしまった。最終的には渡具知二万三八九票、稲嶺一万六九三一票であった。
翌二月五日は第一月曜日である。毎月、第一月曜は市ヶ谷の防衛省前で辺野古基地反対の抗議行動が行われる。夜六時半から一時間ほどだ。その夜も約一〇〇人が集まった。誰もが無念の思い。それでも声を励まして「辺野古に基地をつくるな!」とシュプレヒコールを上げる。沖縄と電話がつながった。マイクから聴こえる声の主は安次富浩さんである。ヘリ基地反対協議会共同代表。名護市長選挙と一緒に行われた同市の市議補選に立候補していた。市長選で戸具知候補が基地問題を徹底的に避けるので、基地問題こそが争点であることを明確にするための立候補であったと聞く。一万九七八二票対一万五九二七票で負けた。
私の横に、団塊世代と思われる男性が立っていた。背負ったナップザックのポケットにペットボトルを挿し、いかにも活動馴れした雰囲気。じじつ辺野古には何度も出かけていることが隣りの男性との会話から知られた。運動の内部事情にも詳しいらしい。
「いっそ、秋の県知事選じゃ翁長に代えて稲嶺を出しゃいいんだ」
そんなことを延々としゃべくる。それが耳についてマイクを通して流れる安次富さんの話が聴きとれない。
「ちょっと! 静かにしてよ。話が聴こえないじゃないか」
堪らず私はそう声をかけた。彼の基地反対の思いは純粋であるに違いない。また、私にしてもそうだが、誰もが辺野古へは自腹を切って出かけて行く。運動仲間が、自分たちも苦しい中から一〇〇〇円札を一枚二枚とカンパしてくれる。「辺野古で座り込んでいるのは何万円も日当を貰った運動のプロだ」というのは事実無根の中傷だ。ただ、いくらか擦れっからしたようなタイプがいないことはない。私が彼に覚えたような不快を県外からの活動家に地元の人が感じることもあるのではないか。ゲート前では福岡から応援に来た共産党の地方議員が「地区委員会から言われて来ました。・・」と、目の前にいるのは自党員ばかりかのように思いこんで自己紹介する場面も見た。ああいう感覚で市長選の応援にも入ったとしたらかえって足を引っぱる。
私が辺野古を訪れてから三か月後の四月下旬、ゲート前では六日間の集中座り込みが行われた。初日の二三日は七〇〇人、翌日八〇〇人、最終日の二八日(この日は一九五二年にサンフランシスコ講和条約が発効した、沖縄にとって「屈辱の日」だ)には一五〇〇人もが結集したという。機動隊との激しいせめぎ合いの中で、本稿にも登場した高里鈴代さんは左鎖骨と肋骨四本を折る重傷を負った。
現場は厳しさを増している。しかし、基地はまだ造られてはいない。闘いはこれからだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2018年7月刊『労働者文学』第83号掲載)

 

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