目次

*講演会記録 「松川事件、三鷹事件、「新しい戦前」について・・・福田玲三 2023年

 

*ルポ 「下北半島から北海道・泊原発への旅」・・・沢村ふう子 2017年

 

*小説 「来年、父が逝った」・・・・・磧 朝次   2023年

 

*小説  「新・狂人日記」・・・・・・・ 黄 英治  2019年


*小説 「 コスモス」 ・・・・・・・ 北山 悠    2021年


*小説 「カンナナの坂」 ・・・・・・ 三上広昭   2021年

 

*ショート  「白いカラス」 ・・・・・・ 村松孝明   2018年

 

*ルポ  「座り込めここへ ~名護市長選直前の辺野古を訪ねて~」 ・・・ 土田宏樹   2018年

 

*書評 「郵政労使に問うー職場復帰への戦いの軌跡」池田実著 ・・・ 土田宏樹  2022年

 

*書評 「庶民の尊厳と希望-高琢基「緩やかな禍」を読む ・・・ 黄 英治  2022年

 

*エッセイ  「テニアンふたたび「『玉砕』の島を生きて」を観て」 ・・・ 穂坂晴子  2021年

 

*詩  「野豚狩り地獄」 ・・・・・・ 木村 和   2021年

 

*戯曲  「コロナ狂騒曲」 ・・・・・・ 加野こういち  2021年

 

*短歌  「同期会」 ・・・・・・ 中村 昇 2022年

 

 *コント 「がらがらぽん ー インタビュー あぺ・しんぞー「戦後七十年談話」を語る」・・ 首藤 滋 2022年

 

*評論 「世界は暗澹たる荒蕪地 ―これは人間の国か、フクシマの明日より」・・・・秋沢 陽吉 2022年

 

 

松川事件、三鷹事件、「新しい戦前」について 福田玲三

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下北半島から北海道・泊原発への旅 2016年 沢村ふう子

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来年、父が逝った  磧 朝次

「夜の明滅」
 その音が、ドアを叩いている音であることも、叫び声が電報配達員の声であることも、菊島隆一には判っていた。いつか来る音であり、声なのだから。半睡状態でそこまでなぞった隆一は、掛け布団を押し退けて次の音を待った。音は中々来なかった。厳しい寒気の方が先だった。音に神経を集中させながら頭上の螢光燈を点け、隆一は布団の上に起き上がってジャンバーを羽負った。襖を開けたとき、待っていたノックが聴こえた。板場を通り、三尺四方の靴脱ぎ場に向ったのも、予行演習済みの行動に似て、無駄な迷いということがなかった。サンダルを履きかけると、「電報です」と、隆一が眠っていた間に何回か叫ばれたはずの言葉が送られて来た。ドアを開けた目の前に、意志を押しつけるように見える長身の男が立っていた。
「御苦労様です」と決まり切った挨拶とともに右手を伸ばすと、二歩程後退りするようにして、
「住所の西の文字が抜けていたので、配達が遅くなってしまいました」と、遅れた事情を説明してから着信紙を目の前に掲げた。隆一は紙片を受け取りながら、配達員の背後の畑を覆っている靄を、素早く盗み見た。小さな建売り住宅に転居してから、初めて見る光景だった。軽トラックでやって来ては耕作をし、季節毎の生り物をトラックに積んで行く、畑の持ち主らしい老齢の男の後姿が想い浮かんだ。それも瞬間のことで、「よくあることですよ」と切り上げようとすると、自分が郵便外務員であると名乗れば、電報配達員も安堵するだろうという思いが走った。だが同時に、用件が済んだらすぐに病院に向わねばならないという気持も膨らんでいた。雑談をしている余裕はない。なりふりかまわずに嘆き悲しむ母の姿も、その母にてこずっている看護婦の姿も養父の入院直後から想像し続けて来たことだ。その母を宥められるのは、母の不平、叱責、或いは注意、助言を幼い頃からひたすら受け続けて来た、この自分しか居ないという思いがある。
 隆一の逡巡を見抜いたかのように、
「それじゃ、電報の御利用ありがとうございました」と、配達員は挨拶をすると、背を向けて靄の中に消えて行った。
 隆一はドアを閉めると、小走りで部屋に戻った。布団を折り畳んで押し入れに戻す間も、出掛ける服に着替えている間も、
「チチシススグ コイハハ」の電文が、耳の中に何度も反響していた。
       一九七一年、昭和四六年一月三十日  

 

 1

 

「夜の明滅」と題をつけた小説もどきは、原稿用紙三枚程度で書き倦んでいた。書き継ぐ意志はあったが、書き続けられないでいた。母が養父の前に立ちはだかるから、という理由が隆一の言い訳だった。物理的な作用ではなくて、精神的な圧迫感である。
 隆一に対しては神経質で癇性むき出しだが、隆一を除けば極く気弱な初老の母。知性や教養とは無縁で、ひたすら凡庸な女性にすぎない。その母が、一九七〇年一月二十六日に亡くなった養父菊島実蔵を書く障害になっている。隆一はそう思い続けて来た。それだけ、隆一にとっての母は怖い存在だった。母の言うことに対して、隆一に有無の余地はなかった。
 付けた題名「夜の明滅」は極く平凡な思いつきによる。養父の二年間の入院中、前半の一年間は書籍取次会社に勤め、後半の一年間は、郵便外務員として勤めながら、それぞれ勤務終了後に、結核療養所中野病院に養父を見舞った。季節によってはまだ明るい内に病院に着くが、帰る頃はいつも暮れていた。病院から出てゆるい坂道を下りながら、養父の病室の窓を振り仰ぐのが習慣になっていた。点燈していることもあれば、消燈していることもあった。その光景から思いついた題名が「夜の明滅」であり、三枚程度の書き出しであった。
 電報が届いた明け方。隆一は母の罵声を想定しながら、身支度を急いだ。急ぎながらも、自分の一挙手、一投足に、母の怒声が覆い被さった。弁解も反論もできない隆一は、母の怒声を全身で受けるしかなかった。靴を履き、ドアの鍵を掛け、私鉄の小さな駅に向う道路を急ぐ間も、母の叱声が絶え間なかった。〝何やってんだ、おめえ。電報は昨日だしたんだぞ〟
 栃木訛の母の口調は、怒気を込めた時ほど鮮烈だった。物心ついた頃から二十七歳まで、ほぼ毎日耳にして来た圧力だった。泣いたと言っては叱られ、走ったと言っては怒鳴られて来たが、離婚して子連れで実家の居候になっていた母の、それが周囲に対する気遣いであったことに気付いたのは、大分先のことだった。だが母は隆一の成長に関わりなく、隆一が三、四歳であった頃と同様の叱声を放っていた。
 駅前広場の端に設置してある電話ボックスから、勤務先に電話をかけようとしたが、想像した通り早朝に電話に応じる者など居るはずもなかった。日昼は百三十人程の郵便外務員が右往左往している集配課の作業場に、電話の呼び鈴が響き渡っている光景が思い浮かんだ。昼とは違って消燈した想像上の大部屋は、無機的な反応しか示しはしなかった。
 電報を受け取った時から、妻への連絡は病院の帰りに寄るしかないと隆一は決めていた。以前に住んでいたアパート近くの産婦人科に入院しているからだ。十日前に長女を産んで退院を待っている。
 国立療養所中野病院に着いて六階に上がったが、病室の名札は外されていた。看護婦は朝の検温回りをしているらしく、ナースセンターには一人も姿が見られなかった。病室を回る看護婦が通路に出る時があるから、左右の病室を見ていれば見つけられるはずだ。その瞬間を待っている間、外気温次第で気温調整をしているはずの館内を、有り得ないことだが、霧状の冷気が流れて行ったような冷ややかさを感じた。すると、頼り所のない心細さがその冷気によって押し拡げられ、体内から無力感を確かめさせられた。思わず、(父は本当に死んだのだろうか)と、幼児めいた問い掛けを隆一は自分に向けていた。
「あっ、お早うございます」
 顔見知りの看護婦の姿を目にした隆一は、それ迄のささやかな拘泥を振り捨てて、反射的に朝の挨拶を送っていた。
 三十代の看護婦が無雑作に口にした部屋の名称は、これまでに何回か聞いたことはある。だが実際に出入りしたことがないから、具体的なイメージは結びようがなかった。
「エレベーターで行くといいわ」
 看護婦はそう言い置いて目の前の病室に入って行った。その言葉に背を押されたような気分にさせられて、隆一はエレベーターに急いだ。その間も母の〝罵詈雑言〟が具体的に想像されて気が重かった。
 エレベーターから出ると、通路の斜め左手に畳部屋が見えた。隆一は明け放ってある障子の陰から中を覗いた。通路の方に背を向けていた母が、エレベーターの扉の開閉音で後ろを振り向いたところらしかった。目の周囲の黒ずみ方が、睡眠不足からの疲労を物語っていた。
「あっ、おめえか」
 隆一が覚悟していた〝罵詈雑言〟は続かなくて、拍子抜けの態で隆一は母に顔を向けていた。母は顔を戻して隆一に背を向けると、
「人が死んでおんおん泣くべ、映画なんかで。ありゃ嘘だな。泣けるもんじゃねぇわ。何だか肩の力が抜けてよ、涙なんか一滴もこぼれやしねぇぞ」
 小説や随筆を読む習慣を持つ人なら珍しくもない生理現象の体験だが、読書体験の乏しい母が語る初めての体験談は、隆一にとって思いがけずに新鮮だった。
「ああ、そうだろうね」
 讃嘆をすると言うほどのことではないのだろうが、癇癪持ちの母が、随分と心情を柔和に語っているようで、隆一は久々に心和む気分にさせられた。少なくとも一年前、勤務先である女子大学の事務局から、二時間かけて帰宅した妻の優子が作った味噌汁を、窓から屋外に放り捨てて、「こんな鼻水みてえな味噌汁が呑めっかぁ」と、猛々しく怒鳴ったときとはまるで違っていた。九州産まれの優子には薄味で当然であったが、関東風の塩辛い味に慣れ切った母には慣染めなかったらしい。隆一と優子は為す術もなく、茫然として母の憤りが納まるのを待つしかなかった。やたらに刺激すると不快な時間が長引くことを承知している隆一は、その時もひたすら母の沈静化だけを待っていた。
 隆一は母の温やかな言葉使いの余韻を感じながら、養父の枕元の線香立てに線香を立てた。誰にも邪魔されずに、大事な仕事を果たした気分に、隆一は満たされていた。

 

 2

 

 敗戦後三年目の一九四八年、養父実蔵と母が再婚した。養父が四十歳、母が二十九歳だった。母の連れ子の隆一が五歳、養父の連れ子の勝が七歳。養父の死後に母に尋ねたり、年号や年齢で割り出した数字で、養父に教えられた訳ではない。
 村の出入り口に当たる杉皮葺きで六畳一間の小屋が、四人の住居となった。母の生家のある集落である。国鉄の駅から四キロメートルほど離れ、六畳一間の小屋に再出発を課した養父と母が満足していたかどうか、幼い隆一に分別できるはずがなかった。
 菊島実蔵と母フサが再婚した経緯など、当時二歳から五歳であった隆一が知るはずもない。その前後の記憶も曖昧と言っていい。隆一を産んで間もなく離婚した母が、生家である「北の家」に世話になりながら、縁戚関係にある「南の家」と「東の家」のいずれかに隆一を預け、三軒の畑仕事を手伝っていたという話も、隆一がそれなりの年齢になってから三軒の伯父、叔母、従兄弟や又従兄弟に聴かされて記憶に折り込んだものだ。養父とは勿論、養父の連れ子である七歳の勝とも、杉皮葺きで六畳一間の小屋に住み暮らすようになっても、何の不思議を感ずることもなくすごして来たらしい。だから、村の出入口に当たる小屋での暮らし振りは隆一の記憶のみで語れるものではないだろう。隆一が語る南千住へ転出する迄の暮らしの記憶は、言わば、親類の大人の記憶の寄せ集めと言うことになる。
 その不鮮明な記憶で唯一、忘れるということのない記憶がある。勝が亡くなったことである。破傷風であった。
 夕暮れに、養父は亡くなった勝を四キロ先の病院から背負って帰って来た。土間に入ってきた養父は道々泣いて来たらしく、砂埃と涙で頬が隈取られていた。隆一が泣いた大人の顔を見たのはその時が初めてで、誘い込まれて隆一は養父の目に見入った。養父は母に手伝って貰い、部屋の隅に敷いた布団の上に勝の遺骸を降ろした。そして改めて勝を横抱きにして、養父は呟き始めた。裸電球一個の麦藁染みた明りは、二人を映し出すには弱かった。二人は辛うじて部屋の隅に届く余光を受けてかすかな影を作っているだけだった。勝を横抱きにして泣いている養父の意味の解らない呟きを聴きながら、隆一はひたすら養父に見入っていた。すると、勝を妬み、自分は寂しかった。
(俺が死んだら、俺を抱いて泣いてくれる父ちゃんはいるだろうか)
 答など見つかるはずもないその問い掛けを呟いた後も、隆一は自分を一層寂しくする養父の姿に見入っていた。
 その夜、大人達がどのように一日を終えたのか、自分が次の日をどのように迎えたのか、隆一にはまるで記憶がない。はっきりしていることは、その日から四人家族が三人家族になったということだった。木炭用の楢材の伐り出しを請け負っていた養父と母に従いて、山と小屋の往復をすることになった子供は隆一だけになった。
 その日常に区切りをつけることになったのは、片手間仕事のような作業の収入では生活が出来なかったからだろうとは、後の隆一が憶測したことである。付け加えれば、勝の死を早く忘れたいという養父の希望が入っていたかもしれない。親子三人が村を出たのは、隆一が学齢期を迎える年の春先だった。母の長兄で、東京・南千住に住んでいる市太郎伯父を頼ってのことだった。その折に養父が母の生家の墓地から小さな缶に土を入れて来たことを、母から知らされたのは、養父が亡くなって間もない頃のはずだ。勝を埋葬した墓の土である。東京に行けば墓地がないから、勝に代えた土の埋め直しの目算はなかったはずだ。結果的に、養父が亡くなって四十九日を迎える月に、隆一が母の生家の墓地から缶に土を入れて運び、買ったばかりの墓地に養父の遺骨とともに埋葬したのである。その後も、養父が墓の土を入れて東京に持って来た缶は、見つからないままだった。母は養父に、養父は母に、それとなく再婚者同志として気を遣い、遠慮し合った人生の締め括りとしては寂しいものと隆一は思っている。ただ一つ、二十年前に養父が勝を横抱きにして、その死を悲しんだこととは違い、勝気な勝にてこずりながらも、墓石の下で眼を細めて勝を見つめている養父の姿が、隆一には鮮明に想像できたことが喜こばしかった。養父はやはり、勝の父親だったということを、一人で確認しながらのことではあったが。そして人は、生きていても死んでも、寂しく哀しいものだという思いを、養父は俺に教えてくれたと納得した。
 空襲が激しくなるまで、一時深川消防署に勤めていたことがあるという養父の案内で、荒川区南千住三丁目の市太郎伯父宅を頼ったのは、夕陽が間もなく沈みそうな夕暮れ間際だった。貸間は東京ガスの円筒型のガスタンクの下に群れている、おびただしい数の中の狭い物置き小屋の一間である。市太郎伯父宅は五分と離れてなかった。
「おう、よく判ったな。時間が判っていたら上野駅へ迎えに行ったのに」
 内職仕事らしい、下駄に花緒をすげる手を休めて、顔を挙げた市太郎伯父は、底抜けに快活だった。村から逃げるように出て来た三人には、市太郎伯父の明るさは救いだった。
「貸間は見つかった?」母は事前に頼んでおいた用件の成果を、遠慮なく尋ねた。
「あるようでいて、ねぇもんだな。敗戦で一時は村に引き上げた人がよ、おまえ等と同じように上京して仕事を探す人が増えてよ、今じゃ、仕事と貸間も競争だかんな」
 伯父も妹である母に対しては、遠慮なく事実で知らせたらしい。
「まあ、手持ちの金がわずかなので、我儘も言えないからね」
 養父は兄妹のやり取りの間に、遠慮気味に口をはさんだ。
「まあ、もう少し待ってくれ、必ず見つけるから。まあ、焼夷弾が降らねぇだけ我慢ができるだろう、見つかる迄は自家に寝泊りすりゃいい」
 とは言え、六人家族の市太郎伯父宅も家族が住むだけでも狭い家だった。だから昼間は伯父が下駄の緒をすげる三畳足らずの作業場に、親子三人が文字通り川の字に寝たのである。その上京した日の一部始終は、養父が入院して間もなく、母が聴かせてくれたことだった。
 伯父宅に住みはじめて間もなく、隆一が失態を演じて大人の顰蹙を買うことがあった。
 生き物好きの隆一が、貨車引き込み線の草むらから、蝸牛を空き壜に集めて来たのである。通称を〝構内〟と呼び慣わしている引き込み線の草むらは、隆一にとっては絶好の遊び場だった。蓋代りの紙を壜の口に当てがい、輪ゴムで封をした。朝、壜の中にいるはずの蝸牛は一匹もいなかった。縦横に銀色の筋を引いて、蝸牛は消えていた。
 この件があって間もなく、伯父は正味三畳しか使えない、名目四畳半の貸間を見つけて来てくれた。路地を伝って行けば、伯父宅から二、三分の距離だった。
 家主家族は二階に住み、玄関から二階への昇り降りに、一階の一畳半を通路に使っていた。敗戦後の住居不足の状況下、資金を持たない暮らしをする人が、それで不満を言えるはずがなかった。殊に養父は伯父宅を訪れた時にすでに、その自覚を開陳していたのである。伯父が見つけてくれた物件に不満を並べたのは妹である母だけで、養父は義兄の世話にひたすら恐縮するばかりで、不満など口にすることはなかった。まして義兄の紹介で畚担ぎの仕事にありついていたのである。ダルマ船で積んで来た石炭を、畚に積んで上下に揺れる一枚板の上をトラックの荷台まで運び上げる危険な仕事であったが。後に隆一が伯父から聞かされたことだが、川に落ちてダルマ船の船腹と岸壁にはさまれて亡くなるという事故があったらしい。特別に寡黙な人というわけではないが、トラックの上乗り(助手)になって運転手から差別されていたことも、畚担ぎの危険なことも、養父は妻子を養っている労働を語って聞かせるという人ではなかったらしい。それは隆一が幼かったということも含んでのこととも言えた。
 倉庫を改造したアパートの、窓のない、終日電燈を点けていなければいられない一室を借りることにしたのは、正味三畳の貸間に移ってからそれほど遠い日のことではなかった。三畳の貸間から歩いて五分程しか離れていない六畳一間である。
 三畳の貸間の近隣には、わずかの月日で茶呑み友達ができたくらいに馴染んだから、養父と母は移転には多少のためらいがあったらしい。
 殊に、路地住人たちの世話役を負ってくれた、何事にも鷹揚な夫婦がいたからである。養父や母からすれば二回りも年上の、小父さん、小母さんと言った世代のはずだ。成人した隆一が後日訪問した時には、二人とも故人になっていた。
 だが養父と母が案ずるほどのことはなくて、改造アパートの住人は温かな人が多かった。二階の三畳間には、五人の子供のいる吉田夫婦が押し入れも寝床にして住んでいた。隣りの六畳間を、独身で東京ガス社員の桑田が、使っていた。就寝時刻になると吉田の小学六年生の長男と小学三年生の次男が枕を持って桑田の部屋に入り込み、それぞれの出勤や登校まで住民然として寝泊りしていた。二階中央の六畳間に住む千葉は、二十歳前後の娘と息子がおり、アパートでは最も安定した家庭のはずだったが、娘と母親の口論が週に一、二度定例になっていた。道路側の大きな窓を持つ六畳間には、山根夫婦と三人の娘等が住んでいたが、造幣局勤務の山根は「黒鞄をさげて、黒皮靴をキュッキュッと鳴らす勤め人」とうらやましがられる存在だった。「おめえも皮靴を鳴らすような仕事をしろ」と母は隆一に何度も言った。その時に、山根夫婦の長女である小学五年生の和子が、精神障害という負担を負っていることは口にしなかった。山根の下の部屋を借りている橋本夫婦は、隆一と同じ年の子供との三人暮らしで、隆一が後で知ったことだが、橋本夫婦も再婚者同志だった。
仕事で石炭粉を顔にまぶしたたままで、隆一の級友である藤本という日本人名の朝鮮人宅の土間では、どぶろくを立ち呑みして帰り、夫婦の口論を繰り広げるというのが日常だった。酒を呑まない養父は、足の爪を切りながら、「またやってるな」と、夏の長い夕暮を楽しんでいる人のように呟いたものだった。
 隆一がねだった十姉妹の巣箱を養父が作ってくれたのは、そのような日々の合間だった。リンゴ箱を近くの八百屋で譲って貰い、Y字型の枯枝に正月の門松に使った真竹を揃えると、養父は巣箱を三日程で完成させた。仕事を終えて帰宅してからの作業であるから、幼い隆一が養父の傍らに座り込んで養父の作業に見入っていたのは言うまでもない。かと言って、小鳥を入れて世話をする光景ばかりが先走って、養父の技術や知識への敬意を持って作業の進行を見るようなことは隆一にはなかった。殊にナイフ一本で竹ひごを五、六十本作り、錐で作った穴に竹ひごを刺し込んで行く、繊細な作業に感じ入るようなことはなくて、十姉妹はどこの店で買うのか、そのとき自分も一緒に行けるのかを尋ねて、養父の気を散らしていることに気付かなかった。かと言って養父が怒気を見せることはなくて、温やかな返事を隆一に聴かせた。
 だが隆一の落嘆はすぐやって来た。番の十姉妹が猫に喰われてしまったのである。異様な羽音でそれと気付いたのは、隣室の橋本の小母さんであった。すぐ隆一を呼んだが返事がない。隆一の母親は買物に行くと声を掛けて行ったばかりだった。似たような世帯だから、買物と言っても翌日の夫の弁当のおかずを兼ねる、安い佃煮ぐらいであることは知れている。それにしても十五分や二十分はかかるだろうと判断した小母さんは、三日前に誉めたばかりの巣箱を検分した。共同で使っている炊事場の棚の上に置いた巣箱が転げ落ちている。学校から帰って来た隆一がその場に着いたのは同時である。
「隆ちゃん、大変だよ。十姉妹が猫に喰われちまったよ」
 小母さんはそこ迄言うと部屋に戻り、玄関口から炊事場に回って来た。母もそこに買物から戻って来たところだった。
 小母さんと母は、金網よりも美しい作りの竹ひごが徒になったとか、巣箱は軒の下に釣るしておくべきだったなどと、失態の原因を語り合っていた。隆一は二人の遣り取りとは無縁に、居るはずのない竹ひごの中を飛び交っている二羽の小さな幻の鳥に見入っていた。
 しばらくすると、小鳥店で厚紙製の穴付き箱に入れる前に、店主がつかませてくれた時の小鳥の感触が蘇った。小鳥の腹は妙に温かく、指の腹が忙しなく打たれた。それが鼓動というものであることを知ったのは、何事にも疎い隆一が進級して三年生になってからだった。
「命っていうもんは温かいもんだろう」
 店を出ると養父が言った。「うん」と答えたものの、隆一が想像していたのは、巣箱の中を飛ぶ小鳥の姿だった。仕事から帰って来た養父は、十姉妹が猫に喰われた報告を母と隆一から聞いて、しばらくしてから「そうか」と呟くように応えただけだった。妙に距離感のある声だった。
 その年の冬、間もなく四年生になるという頃の薄い記憶がある。朝食の支度ができた母が隆一に、「父ちゃん、御飯ができたよって起こしな」と声を掛けて来た。隆一は母に従って養父に声を掛けた。尋常な声音で、養父を揺すりながら。養父は、揺すられ、隆一に声を掛けられても目を開けるという様子がなかった。隆一は養父の労働現場を見たこともなければ、その疲労度も知りもしなかった。隆一に確認できたことは、仕事から帰ってくれば横になり、縁日や盆踊り、酉の市など金のかからない集まりがあれば出掛けるものの、眠ったら起こすのは容易ではないということであった。だからその日、五、六回も声を掛けてから思いつき、養父の耳に口を寄せて怒鳴ったのだ。
「父ちゃん、御飯だよ!」
 養父は寝床に体を起こし、「耳が壊れるじゃねぇか」と叫んだ。隆一の甲高い声とは違い、籠ったような声だった。どことなく若々しさがなく、初めから老人めいた人という養父の印象からは、その声が当然だった。級友からは、自分達の父親の若々しさを聞かして貰っていただけに、養父の若かった時代は想像の仕様がなかった。初めから老いていたのではないかと疑ってしまいさえした。
 養父は共同使用している便所に起きて行ったらしかった。養父の荒げた声を聞いたのは、その時が最初で最後だった。この前にも、後にも息を潜めて生きる人のように、どこまでも静かだった。
 それくらいだから、養父が隣室の橋本さんの小母さんの弟に、刑事と間違われた時には、倉庫の改装アパート住人の話の種になった。養父はガスタンクの下の埃っぽい町に住むようになって、初めから中折帽をかむっていたらしい。それは町から遠出する時に限られていたが、冬季であれば、当然のことだがロングコートを着ていた。中折帽とロングコートは、養父の唯一のおしゃれであったのかもしれない。ロングコートの襟を立て、目を中折帽の鍔でかくしたり見せたりする姿を見て、橋本さんの小母さんの弟は、且って世話になった刑事の同僚かと思ったと言う。養父には似つかわしくない話題だが、アパートの住人は一時の清涼剤としたのだろう。橋本さんの小母さんの弟の、ささやかではあるが、やくざな日常をアパートの住人が聞き知っていたからかもしれない。
 養父が雇われたタクシー会社の花見に、隆一が連れて行って貰ったのは、小学校四年生の春だった。野田の清水公園が会場であった。敷物の上に坐っている社員が写っている写真の裏面に、養父は万年筆で丁寧な説明を書き込んでいる。
 アルバムの背表紙はすでに剥がれているのだが、隆一はひとつの光景を忘れずにいる。
 車座に坐った中の一人が言ったのだ。
「瓜二つだな、当たり前だけど」
 すでに酔っているらしく、上体が揺れて視点が定まらなかった。酒を呑まない養父は気弱く頷いて、その男に向けた顔を戻して顎を引き、うん、と声を出してまた頷いた。そしてゆっくりと隆一の方に顔を向けると、「まあ、な」と苦笑した。その時、「当たり前だろ、親子だもの」と、車座のどこからか、発言を窘めるような声が挙がった。車座の人々が笑い声を挙げ、養父が困ったような顔を見せ、その光景は凍結した。その前の光景は勿論のこと、それ以後についても隆一の記憶には残っていない。それでも、養父が隆一を息子だと称して連れ歩いた、最初の光景として印象づけられた。
 五年生になった年の夏、浦安の川とも言えない水路に、四ッ手網を持って養父が魚採りに連れて行ってくれた。魚釣りのように待ち時間のある漁とは違い、一日中体を動かしている遊びで、呆きるということがなかった。四ッ手網を支える役も、水路の小魚を竹の棒で追い立てる役も楽しかった。養父は隆一に何度かの指示を出したが、うまくいかないからと言って、自分が出した指示に拘るようなことはなかった。夕暮れのガスタンクの街に帰ってからの隆一の自慢話には、温かな苦笑で応じるのみで交ぜっ返すようなことはなかった。夕食後に煙草の「しんせい」の煙を吐き出した時の温かな顔つきに似て、作業車を水洗いしながら岡晴夫の「啼くな小鳩よ」を口ずさんでいる時間同様に、どこまでも温かさを失わなかった。
 むしろ、ラジオの野球実況放送を聴いている時に、「あれっ、駄目だな、一点も取れやしねぇじゃねぇか」などと呟くときの方が、語勢は強かったし遠慮もなかった。その違いの理由を、小学生の隆一に推測の仕様がなかった。
 六年生になった春、隣接区に転居することになった。狭い土地を買って、小さな家を建てるというのである。隅田川と荒川を国電と私鉄を使った先ということで、転校することになるだろうとは二親の当初の判断だった。だから隆一は担任に、級友への転校挨拶の仕方を尋ねた。挨拶は転校当日にするとして、折角だから、形があった方がいいだろう。一輪差しに花一本というのもいいんじゃないとは、三年生の時から四年間担任してくれた女性教員である。この小学校が初めての赴任校であるから、先生と言うよりも姉弟みたいな年齢差である。忘れない内にということで、隆一は母から小銭を貰い、通称「構内通り」を通って駅前の花屋に行くことにした。時間にして片道二十分。担任が好きなポンポンダリアを図書部の何人かと担任とで買いに行ったことがあるから、道順は間違えようがない。図書室に飾る花だった。
 家を出ると路地を抜けて直線の構内通りに出る。通りに沿って無蓋の貨車が十輌程並んでいた。石炭を積んでいたらしい無蓋車の先に、有蓋の貨物車が点々と止めてある。構内には入るなと学校でも町内でも言われているが、〝赤帽〟に追い回されるスリルを楽しむとかで、六年生の足の早い何人かが構内に入っていると隆一は聞いている。隆一に禁止事項を破る気はないから、スリルを味わったこともない。
 囃し立てるような声が構内から聞こえ、隆一は柵の間から構内を覗いた。いつものことなので、何があるのか、自分でどうするのか、もう解っている。通り過ぎて花屋に向かうか、同学年の少年達が騒ぎに呆きて帰るのを待ち、山根さんの和子を家に届けるかの二つだけなのだから。
 最前から続いていたはずの下卑た笑い声とともに、中の一人が女性性器の俗称を和子に浴びせた。すると和子は即座に同じ言葉を言い返す。そして五、六人の同学年の男子の下卑た笑い声が湧き上がる。
 しばらくしてから、六年二組の三人が散るように去ると、残っていた三人もつまらなそうな二、三の言葉を交わして、構内通りからそれぞれの路地に入って行った。そこまで確かめた隆一は、体力もなければ気力もない自分の非力を改めて恥じながら、柵の外から和子を呼んだ。空しさが自分を覆うようで、隆一は無言で歩きはじめた。和子の手の甲に血がにじんでいたが、さっきの連中と石の投げ合いでもしたのだろう。怪我をしながら立ち合う和子の気丈さに、隆一は一方で心やすまる思いを抱いていた。山根さんの小母さんは、和子の手に甲の傷を見せて隆一が説明しても、それ程驚いた様子も見せなかった。
 大人達の相談で決まったらしく、結局、隆一は転校せずに、国電と東武線を乗り継いで、残る半年を卒業式まで通うことになった。
「いつの間に家を造ったの」
 橋本さんや山根さんが養父と母に声を掛けたのは、隆一が六年生の夏休みを終えて間もない頃だった。九月にしてはまだ暑い盛りで、改造アパートの前にトラックを留めて、荷物を積み込んでいる最中だった。
 アパートの間借り人仲間との遣り取りを母に任せた養父は、荷物を運びながら終始笑顔を絶やさなかった。タクシーの運転手になってからの養父は、運転席の窓硝子を終日開け肘を掛けているから、右腕だけが陽焼けしてしまうと母から聴いている。母の説明通り、半袖の左腕と右腕の皮膚の色は極端に違っていた。むろん隆一には、それが労働によるものであり、そのおかげで自分が生きているなどということは想像したこともなかった。加えて、小さいとは言え一軒の家を建て、その為に養父と母がいかに切りつめた生活をしていたかということも。

 

 3

 

 南千住のガスタンクの裾から、まだ田畑などの自然がちらほらと残っている足立区の梅島に転居すると、小学六年生の隆一は目高やざりがに獲りに夢中だった。田圃沿いの住居であるから、季節毎に変化する植物も豊かだった。母は西新井大師の縁日に出かけ、バラの苗木を買ってきては狭い庭に植えて楽しんでいた。六畳と三畳二間の狭い家とは言え、養父にとっては母の姉妹や従姉妹の来訪を歓迎する場であったらしい。当時の隆一は気にも留めなかったが、養父の親類が訪ねて来たことはなかった。小さな家を訪ねて来る人は、専ら母の親類・縁者ばかりであった。
 隆一が中学生になったからと言って、養父の隆一に対する態度は変わらなかった。中学生の息子を持つ時の心構えを準備するなどということはなかったらしい。隆一自身、極く自然な日々を繰り返していただけで、養父が対応を困るようなことを避けて来た訳ではない。だから夕飯の後で、濡れ縁に尻をつけて夕風をうけているとき、養父が口にした言葉には困惑したものだった。
「国鉄の駅員をしている時によ、駅の標示板に駅名を書いたんだよ、勘定流で。歌舞伎の看板なんかで見たことねぇかな」
 養父が隆一に自慢したがっていることは強く感じたが、文字に関心など持っていない隆一は返答に窮した。知らないと言えば養父が傷つくだろうし、知っていると言えば事の成行きから感想を求められるだろう。その中間はないのかと返答に迷いながら、
「今度、田舎へ行くときに見て来る」
「うん。それ迄に残っているかどうか。掲示板の材質も変って行くようだしな。どんどん変わって行く」
 養父は諦めかけた人のように、両肩から力を抜いて、母が植えた四季バラに目をやったようだった。
 国鉄の職員をしていた時の前なのか後なのかはっきりしないのだが、深川消防署に勤めていた時、空襲続きで退職してしまったという話の時よりも、目が活きいきしていたように隆一には見えた。とは言え、養父が母と再婚する迄の四十年間を、どのように暮らして来たのかが曖昧であることに変わりはなかった。隆一自身にしても、外に関心を持つようになった頃には、養父や母よりも友達に目が向くようになっていた。だから肺結核の診断が出て、早々に仕事の途中で帰って来たと母から告げられた隆一は、布団を被って寝込んでいる養父を寂しい思いで見おろしているしかなかった。自分を養い育ててくれた人の姿としては、予想をしたこともない弱々しい姿だった。
 診断が出てからの、五十八歳の養父が考えなければならなかったことは、地主に家屋を少しでも高く買い取って貰うことだった。個人タクシーの申請に思いの外早い認可が出され、梅島の路地の奥では車庫としては許可が降りず、西新井の車庫付き一軒家を買ったからである。そして思いがけず養父の発病へとつながり、新しい住居は隆一と母で探さねばならないと、事態は矢継ぎ早やにころがり続けた。
「おめえも、一緒に行った方がいいな」
 養父は隆一と目を合わさずに言った。行くと言うのは地主に家屋の買い取りを頼みに行くことだった。これ迄の「大人」の交渉は養父が全てやってくれていたはずで、隆一は自分が初めて大人の世界に呼び出されたようで途惑った。知識もなければ体験もない。中でも交渉するなどということは、二十五才になったとは言え、想像のしようがなかった。大学の夜間部では、講義の合間のサークル活動や同人誌活動・自治会活動に熱中していた。実務的な訓練などは皆無だった。
 地主は近辺では名の知られた区会議員だった。煙草屋の小窓越しの小部屋に地主は坐っていた。掘り炬燵に両脚を入れたままで、煙草を買いに来た客に応対できるようになっている。
 地主は裏口の板戸をノックした養父に、「ああ」と横柄な返事をした。養父は事前に連絡をしていたらしい。張り子の動物の真似でもしているように、頭を何度も上げ下げした。「うん」地主は養父の用件を承知しているはずなのに、養父の言葉を促すように咳のような声を出した。
「買って貰いたいと思いまして」
「幾等のつもりだ」
 七十歳近いと思える地主が、売店の小窓の方に顔を向けたままで尋ねた。
 上物を売る予定でいることを立話で口にしたとき、母が隣りの武田さんの奥さんから、
「田口の爺さんが、埼玉県境の一軒家に妾を囲ってるんだってよ」という話を聞かされていたことを隆一は思い出した。田口の頬の老紋が武田さんの話を思い出すきっかけになったようだった。
 永くもない沈黙が空気の動きを止めた時、養父はいきなり隆一の後頭部に掌を当てて、「ほら、お願いしろ」と隆一の額を床に押しつけた。突然のことだった。養父の腕の力は序々に弱くなり、そのうちに後頭部に掌を添えているだけとなった。だが、添えている掌は地主が金額を口にする迄同じ位置から離さなかった。
「悪かったな」
 田口の煙草屋が見えなくなってから、養父は俯き加減の顔を上げもせずに言った。寂し気な余韻を引いた声に隆一は、思わず脇を歩く養父に顔を向けた。養父はどういう思いからのことか、「まあ、しゃああんめいな」と呟いただけだった。
 埼玉県下に建売住宅を買い、養父が入院し、隆一は学友の優子と結婚し、二十七歳になる年の一月に長女が産まれ、養父はその十日後に入院先の病院で亡くなった。
 その後の一年間は、養父が住んだこともない建売住宅に、養父が帰ってくる気配を感じて、隆一は何度も上がり框を見に行った。

 

 4

 

 父が亡くなった翌年、妹で洋子だと名乗る娘が現われた。これ迄に考えたこともない事態だった。隆一はその面談を短編にそのまま引き写した。題名は「洋子」とした。
 以下のように書き出している。
 濃い眉が目をひく。両頬の白さは化粧のためばかりとは思えない。二十歳ぐらいだろう。その娘は頭上からの強い光を頬に受け、窓際の席からじっと隆一を見つめている。隆一は足元に目を落とした。靴が湿っている。踏み出した一歩が重い。
「電話をくれたっていうのは……」
 声をかける時、隆一は改めてその娘の目と鼻筋をたしかめた。
「お兄さん……ですね。ようこです」
 娘は全身を開くように無警戒な笑顔を見せた。
「……」
 隆一は曖昧に頷き、こわばった顔に痙攣のような動きをみせると、チラッと窓の外をみた。向い側の駅舎が吹き溜りの雪に融け込んで淡く、遠くなっている。目は一重瞼と細い鼻筋を想像していた隆一は、ショルダーバックを椅子におろしながら、眉の濃さと頬の白さが目についたことを思い返していた。
「私、電話してきます」
 向い側の椅子に隆一が横坐りに尻を降ろすのと同時だった。娘の声は弾んでいた。
「電話?」
「お友だちに。お兄さんに逢えたっていうこと」
「……」
 娘は尻をずらして窓際から通路側の椅子に移り、一瞬、腰を引くようにしてからスッと立ち上がった。甘味を帯びた臭いが次第に遠退いて行った。娘の太股の白さが目に残った。二月上旬だというのに、娘はショートスカートだった。
 隆一は軽く頷くと、窓際に体を移して、窓硝子に映った自分の顔を改めて見た。濃い眉と白い頬。そして細く切れ長の眼と気弱気に細い鼻筋。
『何だって娘なんか寄越したんだろう。今頃になって。ああ、そうだ。父ちゃんが死んだもんだから、これ幸いと寄越したんだよ。きっとそうだから。図々しいね、全く。さっさと返して帰ってきな。何もこっちには義理だてはないんだから。いいね、さっさと返した方がいいぞ』
 上がり框で、母はいつもの調子でまくしたてた。隆一は三尺四方の薄暗い靴脱ぎ場を、黙って見おろしていた。水滴の跡が広がっている。母の下駄の歯が、雪の塊りをはさんでいた。
『お兄さんに逢いたいんです、なんて、何のつもりだかよ。ここに引越して来たことを、どこで聞いて来たんだか。行く必要なんかないんだよ、何も。馬鹿にすんのも、いい加減にしろって言ってやんな』
 毒づく母の言葉を聞いていると、降り込んで来た雪片が首筋に落ちた。ドアは開けたままだ。母の、激して刺々しい言葉とは裏腹に、隆一は冷め切った気持で声が止むのを待っていた。
 駅迄の、細い路地裏を、隆一は雪に追われて先を急いだ。二十分程度に歩いて来た道は、すでに靴を埋めるほどに雪が積もっている。
(妹、か)
 隆一はその言葉を口の中に包んでいた。
 踏切りを渡ると、店はすぐ判った。玩具のようなつくりの店だった。通勤の往復にしか使わない私鉄の小さな駅の、南側のひろがりは、隆一にとって初めて見る光景だった。
「遅くなるって、断って来ました」
 娘は思ったよりも上背があった。テーブルの真上の、赤い笠を拡げた照明を避けるようにして、ゆっくりと椅子に滑り込んだ。
「電話を呉れたのは……」
「ここからかけました。突然で驚いたでしょう」
「……」
 隆一は苦笑しながら頷き、その白い頬を改めて見直した。
「ドアを開けたとき、すぐに判りました。もう少し太っていれば、お父さんにそっくり」
「荒川区に住んでいる伯父さんにもそう言われたことがあるけど……」
 高校を卒業したものの、進学の費用が揃えられず、就職するために、栃木県から戸籍抄本を取り寄せて十日後のことだ。養父と母に頼まれた市太郎伯父は、隆一と二階の狭い部屋で向かい合うと、『父ちゃんが違っていたぐらいで、男のくせにみっともねぇ。ヤケをおこすんじゃねぇぞ』
 電燈の下の伯父は、十年前の〝呑んだくれ市〟とは似ても似つかぬ、気弱気に目をしばたたかせる初老の男だった。帰宅が遅くなるようになったのは、戸籍抄本を見てヤケを起こしたからではなくて、大学の夜間部に通い始めたからだった。伯父の説得があったその日から九年。伯父は二年前に亡くなっている。
 ウェイトレスが去ると、
「用件をまだ聞いてないけど」
「お父さんが逢いたいと言うんです」
「君が下見ということか」
「そういうところです」
 お河童という髪型なんだろう、刈り揃えた前髪が揺れた。黒く硬そうな髪が両肩まで垂れていて、かすかな動きにも、黒い絹糸のような艶を光らせてひろがった。
「煙草、いいかな?」
「私も吸います」
 娘は純白のシガレットケースを開いた。テーブルに置いたライターは、職場の同僚が自慢しているロンソンだった。隆一はマッチで火をつけると、窓に顔を向けた。
「親父は死んだよ、年末に」 
「聞きました、塩田の人が郡山に来た時に」
「福島に戻ったの?」
「両親だけです。兄は北海道で就職してますし、私は東京に来てますから」
「それ迄釧路って言ってたね。伯父に聞いた話だけど」
「それは父が一人で行っていたときのことでしょう。お兄さん達が塩田村からいなくなってからは、父は札幌に戻り、そこで母と再婚したみたいです」
「……」
 雪は小降りになっている。駅舎がさっきよりはその姿がはっきりと見えるようになった。
『そうか、気付いていたのか。そりゃ、そうだろうな。だけど、菊島はいい親父だったぞ。傍目から見ていても、実の親以上だった。よくあれだけ世話できると思ったくらいだ。それにくらべたら、隆介は屑だ。フサとお前を放っぽり出して、北海道に行ってしまうんだから。その後のことは俺も知らないし知る必要もない。うん、お前が大きくなって来て、隆介にそっくりだってことは話し合っていたんだがな、確かに似ている、そっくりだ。だけどな、お前の親父は菊島一人だぞ、それを忘れるな』
「一九歳の時にね、高校を卒業した時だが、伯父からその話を聞いたら、北海道に行ってみたいと思ってね……」
「……」
「逢ってみて、どうなるんだろうと思ったら、今度死んだ親父の顔が思い浮かんでねぇ。荒川区って古い典型的な東京の下町なんだけど、伯父の家を出て、路地裏を歩いていたら涙をこぼしてね。あの涙は何の涙だったのかな」
 洋子は黙って頷いた。隆一は窓硝子に向けて煙を吐き出した。眉と頬の白さは、やはり妹だと思った。
「異母兄妹、か。何か変だね」
「私は小さい時から父に、ヨウちゃんには八つ違うお兄さんがいるんだって教えられてきたから、変だっていう気はありません。電話でも、素直にお兄さんいますか、って言えましたよ」
「いいね。俺には言えそうにないな。君の名前も初めて聞いたし、君がこの世に居ることすら知らなかったんだから」
「でも妹ですよ、私」
 カップに唇をつけた洋子は、白目勝ちに隆一を見上げた。やはり頬は白く、艶やかだった。
「お母さんには内緒ですけどね、お兄さんのこと。父もお母さんには言ってないみたい」
「それは解る。ちょっとおかしいけど、よく解るよ」と同調すると、「変よ、そんなに力を込めて言うのは」と洋子は言って小さく笑った。不意に養父の横顔が脳裏をかすめた。寂し気であった。しばらくしてから消えると、
「血縁関係なんて、文字面だけのことかと思っていたけど……。ここまで歩いて来ながら、一方じゃ妹がいたのかという気もあったけど、古い昔の親戚が現われたみたいな気になってね、重い気もしていたよ。その血縁なんてものにしばられるのが恐くてね。切り捨てられるものなら、自分一人になりたいと思っていたくらいだから」
「これでも二十歳の現代人ですよ。それも、都会暮らしが身についた人間のつもりですけど。今年は短大から四年制に転部しようと思っているんです。東京に永くいたいから。お兄さんのことを報告しに行きながら、父に転部の許可を貰おうと思っているんです」
「打算か?」
「そんなところですね」
 隆一の苦笑に合わせて、洋子は舌を見せた。
「お兄さん、結婚してるんでしょ」
「うん、夜間部のクラスメイト」
「大学で」
「うん、君はどうなんだ、恋人ぐらいはいるんだろう」
「それが、ゼーンゼン。女子大だから、チャンスも少ないしね」
 洋子は無邪気に笑った。まだ十四、五歳に見える底抜けの明るさに、隆一は苦笑してコーヒーカップに手を伸ばした。
「おふくろの話じゃ、俺達を置いて北海道へ行っちゃったろう。二年間も捨てられていたから、人に追われるような生活をして来たアノ人は、自分を追いたてなければいられなかったんだろうなぁ。だから」
「違うみたい。父の言い方では戦後のことで、何とかしなくちゃいけない、一旗挙げようっていう野心もあったらしいけど、三男の父が貰える田畑もないので、やむなく北海道に渡ったってことになっているわ。それも、ちゃんと二人で話し合ったうえで」
「そうだろうな、待てない人なんだ、あの人は。自分がすることも待てないし、いつも周りを気にしていなければならない人だから」
『お前等みたいに、中学に行きてぇだの、高校に行くだの、勝手なことをほざいてなんかいられなかったんだよ、私らは。餓鬼が十人もいちゃ、誰かが奉公に出なくちゃ食っていけないんだから。一旦奉公先に行ってみろ、ノロマだのウスノロだのドジだの、坐り方、歩き方、掃除の仕方、飯の食い方が悪いだの、年中悪態のつかれ通しだぞ。誰が好きこのんで奉公なんかに行くって言うんだ。口減らしの必要がなけりゃ、誰だって親元でノウノウとしていたいわ。そんな所に行ってみろ。三年も四年もいれば、誰だって気持が捩れちまうから。人の言うことなんか信用しなくなって当たり前だ。母ちゃんのことをどうこう言う前に、自分でそういうつらい目にあってみろってんだ』
〈進学希望調書〉を突き返した母は、細い目を釣り上げて溜息をついた。父はその夜、帰ってこない。一日おき二十四時間勤務の、タクシー運転手の生活を続けて六年。賃金は歩合制だから、働いたつもりでも、疲れた割りには手取りは少ないのが実感らしい。休むも働くも自分で調整できることだからだろうが、〝個人タクシーの免許を早く取りてぇなぁ〟と言ったことがある。それが大それた夢であるかのように照れ笑いをした。
 その父に気兼ねして、高校進学を隆一に断念させようとする母の気持は解っていた。夫隆介が居なくなって身を寄せた、母の実家以来、隆一は母の気持ちを読み取るのが性格の一部になっている。家を継いでいる次兄とその兄嫁に気兼ねしながら、その日その日が無事に暮れることを待つ〝余計者〟に出来ることは、兄や兄嫁の前で幼い息子を神経質に叱りつけること位だったのかもしれない。
『母ちゃんだって、尋常科四年しか行かなくたって、チャンと生きて来たんだから。何も高校なんか行かなくたって生きていけるわ』
 母はいきなり嗚咽した。十五歳の隆一は、母の嗚咽が理解できた。理解しながら不安だった。
(今日も、何か言い返していたら、おそらく手のつけようもない泣き方をしたろう。糸が切れるまで怒鳴り散らし、切れたら泣きやまない人だから)
「北海道から戻ったときは、再婚して村から居なくなっていたって。ショックだったみたい」
「君はお母さんを愛してる?」
「そんなこと考えたことないわ。普通だと思うけど」
「それでいいんだろうな。親子って言うのは、普通で」
「どうして?」
 隆一はそれに答えずに、友達と待ち合わせるという洋子の待ち合わせ場所を、簡単に確かめて立ち上がった。電車で移動する間は、二人とも沈黙を守っていた。隆一は、口を開くと何かに逃げられそうな思いがあった。
 池袋の店は隅の方で鉄板を嵌め込んだテーブルを間に向き合った、アベック以外に客はいなかった。洋子は脱いだブーツを揃えると、
「あの人たち、恋人同士みたいね」
 悪戯っぽく言ってからコートを搦め取って脇に置いた。隆一は隅の二人を見直して苦笑した。
 店員が寄ってくると、洋子は解り切ったことを繰り返すように注文品を口にした。隆一は改めて店の中を見回した。入りがけに、〈鉄板焼き・お好み焼き〉の文字を見たように思う。テーブルのどれもが鉄板を嵌め込んだ、座敷形式になっている。手持無沙汰を装って、メニューを確かめてみた。小遣い兼用の昼食代は三万円。まだ手をつけてない。貰ったばかりなのだ。
「雪だから、お客さんが少ないみたい」
 洋子は店内を見回している隆一が目を戻したところで呟いた。壁の時計が十時半を回っていることに気付いた隆一は、洋子の声を聞きながら母の対応を想像していた。玄関口で、怒鳴るか嗚咽するか、それともジワジワと繰り言を続けるか。こんな親子がいることなど、洋子には考えようがないだろう。
「年をとったからという訳ではないでしょうけど、最近は特にお兄さんのことを口にするようになって。うん、お兄さんが小学生の頃、夏休みに村の街道で友達と遊んでいるお兄さんを見かけたことがあったそうです。七、八年も経っているのにすぐ判ったみたい」
 洋子が話し出したのは、二杯目のビールを注ぎながらであった。鉄板の中央に円くひろげた焼き物が、海老の香りをのぼらせていた。
「……」
「私がまだ二つか三つだったと思うけど」
「おふくろは逢うことに反対するよ」
「そうでしょうね。さっきの電話の様子では無理だと思う。秘密にするしかないでしょうね」
 洋子は横座りになって脚を伸ばした。
「君はどう思う?」
「私はどうでもいいの。昔の人達が勝手に今の原因をつくったって感じ。私には関係ないわ。ただ、こうやって初めて話をしてみて、お兄さんとなら付き合ってもいいな」
「戦争がなかったら、貧困がなかったら、こんなことになってなかったと思うけどね」
「一理あるけど、それは個人の問題にも原因があると思う。二人とも随分我儘だったっていう感じがする。お父さんの話を聞いていると、二人とも若かったのよ、勝手だったんじゃないかしら。待てない人って言ったけど、それはよく解るんです」
 コップの縁の泡が弾けて消えた。白い点になっている。隆一はそれを指の腹で撫でると、
「僕ぐらいの年令だったんだな、当時の二人は」
「子供たちがその二親を批評して、また自分たちも子供から未熟だと批判されて。読んだ本のことで、友達がそんな風に言っていたことがあるけど」
「中には怖気付いて、親の批評どころではない人もいるよ。生活の繰り返しで、習い性になってしまってね。君はいい、自由な感じがする」
「お母さんに言わせれば、それこそ我儘で、危なっかしくて、どうなるか判ったもんじゃないっていうことになるけど」
「それでいいんじゃないか、僕には真似ができないけど」
 コップ半分ほどのビールを、隆一は目をつむって一気に呑み込んだ。目の底に、やはり怒っている母の顔がある。
 間もなく洋子が笑い出した。
「二人がチャンとしていたら、私達がこういう形で逢うなんてこともなかったろうし」
「君もこの世には生まれて来なかったろうし」
「こんなものかしら。まるで犬や猫と同じじゃない? 私達が生まれて来たっていうこと」
 焼き物を皿に取る洋子の頬は、すでに朱を帯びていた。
「僕が母親違いの兄妹だってことになっているから、君も安心して話すんだろうけど、もし他人だったらそうはいかないだろう。血縁なんていう妙な仮定があるからだろうな」
「仕事だったら別だけど」
「仕事?」
「お兄さんは何をしているの?」
「郵便屋さん。郵便鞄を着けた自転車で、郵便物を配達して回っている郵便配達員」
「単調みたいね」
「単純な肉体労働だし、毎日同じことの繰り返しだよ」
「よく聞くけど、たまに飲んで、映画を見たり、私は退屈するな、そんな日常って」
 酔いが見える目はやはり二重で丸い。
「そうも言ってられないさ、食うためには」
 その時、洋子は急にガクッと左肩を落とした。
「送ってこうか?」
「えっ?」
 洋子は白目勝ちに隆一を見上げ、しばらく見ていたが、
「やだわぁ、お兄さん、私、酔ってなんかいないわよ。大丈夫」
 乾いた笑い声が客のいない店に響いた。
「お兄さんて、酔わないのね。強いのかしら」
 洋子は唇についたソースを、舌の先でなめると、改めてコップを空にした。
「酔えないんだよ、どこで呑んでも」
「流行んないですよ、そんなの。私は割り切っているの。勉強する時、遊ぶ時、呑む時、すべてその時はその事だけに熱中して、他の事は忘れてしまう」
「いい性格じゃないか」
「性格? 違うわ、違います。自分で自分をその場に合わせてしまうのよ。こんな時代ですもの、そうしなければ生きづらいでしょ」
「……」
「お兄さんは違うんだなぁ、感じるんだけど、何にでも後退りしている」
「酔いたいって、思う時があるけどね。あれをやろうとすれば駄目。これをしようと思っても、その場になると駄目」
「さっき、この店の前に来て、私がここでいいかって聞いた時、うんと言いながら一歩退がる感じだったわ。普通なら、店が決まったらのめり込むように入るものよ」 
 隆一は膝元の栓をひねり、ガスの火を止めた。鉄板の上のものは、ほとんどが焦げ付き、その臭いが鼻をつく。
 いま、ここにこのままずっといたら、自分はどう変わるだろう――隆一は焦げついたものを見おろしたままで思った。それが空しい想像であることは解っていた。ただ、束縛から離れられる、そう思うだけで解放感に包まれた。
「俺はこうやって生まれついてしまい、一生が終るまでこのまま生きるしかないだろうな。冒険もできず、自由の感覚も知らず、ただ老けて行くしかないんじゃないかな。もう、先が見えてしまっている」
 その時、ドアが弾かれたような音をたてた。真赤なコートが先ず目についた。髪に点々と雪片をまぶしている。
「おヨウ!」
 叫び声のようであった。
「おそかったじゃん!」
 目の前の洋子が応じた。隆一は二人を見くらべた。女はよろけ込んで来た。
「悪い。仕事、仕事」
「そんなに客がいたん?」
「少ないから離せないってとこかなァ。あらっ、このしと、兄貴って言うのは」
 女は無遠慮に隆一を指差した。その拍子に羽負っていたコートが左側にずれ、あわてて右手でおさえた。むき出しの左肩が現れ、紫色のワンピースが見えた。服のスパンコールが光った。
「そう、お兄さん。友達なの」
「……」隆一は軽く頭をさげた。
「意外ね。おヨウの兄貴だと言うから、コロコロした人を想像してたのよ」
 女は洋子の傍らに坐り込みながら、笑い声をあげた。目の上に塗ったラメが螢光燈の光をキラキラ反射させた。唇の紅が太くうねった。
「今晩、この人の所に泊まるつもりなの」
「近いのか」
「車で十分。よかったらお兄さんもどうぞ」
「いやあ、僕は電車で帰れるから」
 突然、女は硝子でもぶちまけるたように笑った。
「冗談、冗談よ。随分真面目じゃない。チョットウ、ビール、ビール持って来てよ」
 躰を洋子に預けるように捩った女は、奥に向って怒鳴った、洋子は肩で女の躰を受けながら、鉄板のものを指でつまむと、狙いを定めてヒョイと口に放り込んだ。口の中が赤く見えたような気がした。
 女は鼻歌をうたいながら、自分でビールを注いだ。馴染みのない曲だ。
 隆一はショルダーバックを傍らに引き寄せた。
「ちょっとぉ」
 洋子は女の肩を押しやると、急いで坐りなおした。女は頭を振りながら、かろうじてテーブルの縁に二の腕で体を支えた。揺れて、ビールの泡が鉄板まで流れ、乾いた音をたてた。
「郡山には来ない方がいいと思うんですけど。逢えますか、父に」
 頭は不安定に揺れて心元なかったが、目はたしかに開かれて光っていた。酔いの底からアルコール臭を振り捨て、必死に立ち上がったように隆一を見すえている。濃い眉が、かすかに痙攣でもしたように動いた。瞬間的な、神経を帯びた動きだった。
「それじゃ、私のところに連絡だけでもくれませんか」
 濃い眉が、目を覆うようにして、目頭に寄った。
 洋子はバックから手帳を抜き出し、体を丸くして膝の上でペンを動かした。女がボンヤリとした眼差しで隆一を見ていた。気付いて顔を上げるとニッと笑い、自分の顔の前で平手を振った。隆一は女に笑い返した。
「洋子は字が上手いのよ。福祉学科三十名中、一番うまいんじゃないかしら。私はバイト専門で、勉強は二の次。洋子はこれ迄も店じゃ人気があるのよ。それなのに、バイトはあまりやらないの、そんなもんよね」
 洋子は女を肘で軽く突き、千切った紙片を寄越した。目白にある女子大学の寮になっている。
「ようこ、って言うんだなぁ」
「はい、父が見た釧路の海の記憶から、洋という字をとったと言ってます」
「臼井洋子」
「……」
 ショルダーバックを肩に掛けようとして、家に弁当箱を置いて来なかったことに気付いた。帰れば、夜中であることにも構わず、母はこの弁当箱を洗うだろう、と思った。明日でいいじゃないかと声を掛ければ、ますます偏執的に弁当箱の隅をこする。そうすることで、かろうじて自分を抑制し、均衡を保つしかない。母のそんな場面を、隆一は二十八年間見続けて来た。
「お兄さん、そこの角を曲ったエリザベス。忘れないでよ。一回は来て、私を指名して頂戴よ。うんとサービスするから」
 女が頭を振りふり言った。隆一は苦笑して頷いた。
「それじゃ」
 隆一は見た。濃い眉と白い頬を、撫でるように見た。
「さようなら、またね」
 洋子はスックと背を伸ばして言った。
 店を出ると、隆一は振り返らずに後手にドアを閉めた。その拍子に、踏み荒らされてシャーベット状になった泥色の水溜りに紙片が滑り落ちた。
 拾いかけた隆一は、優子が不在でよかったと、ふと思った。家に居れば隆一の帰宅まで眠れなかったろう。高校時代の友人の親の葬儀で、昨日から優子は出身地である九州の方に行っている。ただの偶然ではあったが、妻の優子も母も、そして洋子も気を使う場が少なくて済んだはずだ。
 隆一はデパート名と駅名をつなげた標示板を見上げ、頭を一振りすると洋子が呉れた紙片を確かめながら、コートのポケットに押し込んだ。
(おめえがいいと思うなら、それでいいだろう)
 隆一は、自分でその様に納得するしかなかった。

 

5 結婚・組合

 

 遠慮気味に、暗い階段下の陰で養父が微笑んでいたのは、極く短い時間であったはずだ。市太郎伯父の紹介で山根さんから借りた、正味三畳に付いていた階段の下である。
 顔形がはっきりと見えたわけではないが、仕種や雰囲気から養父であることが判る。隆一は思わず「どうしたの、父ちゃん」と幼い頃の言葉で呼び掛けていた。正座した両膝に両手を当て、両肩を窄め、背を丸くした養父は、微笑んでいるだけで、声で応えはしなかった。しかも光に当たらない陰から出ようとしないから、隆一は手を伸ばしてまた声を掛けた。手が養父に届いたはずだったが、手応えはなかった。父は消えていた。夢だった。
 何の前触れもなく夢に現れた養父はそれきりで、隆一の意識の底を叩くようなことはなかった。かすかな疼痛のようにして、「夜の明滅」を書き継ぐ促しを感じはしたが、ペンを取って原稿用紙に向かうまでにはならなかった。 
 たしかに時間に追われていたことも事実で、養父の死の前年にクラスメートであった優子と、未熟な自分を省りみることもなく、四年間の交際を締め括るようにして慌しくささやかな結婚式をあげた。隆一が優子との結婚を望んだのは、何よりも性格が母と、そして自分と対極的であったからである。小柄な体型からは想像できない、何事にも鷹揚で泰然自若としているのがよかった。細心で神経質な隆一とは、文字通り性格の不一致を地で行く相手であった。そしてそれが苦になると言うようなことはなかった。長閑な田舎出の、のんびりした女性という感触が心地良かった。二部文学部自治会活動など、クラス全体で行動するときも、文学研究会やワンダーフォーゲル部の部活動にしても、文芸同人誌の編集会議などでも、他人を急かさないばかりでなく、いつものんびりと後から従いてくるのが優子だった。
 男子学生の大半がアルバイト先を転々としているだけに、登校が早かったり遅かったりするのに対して、女子大学の事務局に勤めている優子は仕事が終わってからの登校で、一時限目は大方が遅刻であった。優子を意識するようになってからは、その一時限目を最後部のドアから教室に入り、空いている席を探しながら教室中に靴音を響かせていく優子の後姿を、最後列に座っている隆一は冷や冷やしながら見ていたものだった。無論、そのような視線に気付かない優子は、文字通り慌てず騒がずといった体で最前列の席に座るのである。
「どうする?」
 前段抜きで隆一が優子に問いかけたのは、卒業を間近に控えた下校の道だった。
「田舎では、女は二十五歳迄に結婚するものだって言うのよ」
 優子は他人事のようにあっけからんと言った後で、
「私学共済の会館を申し込もうか」と具体的な話の進め方をして、段取りなど考えてない隆一を驚かした。隆一はクラスメイトに優子との交際を冷やかされたりしているものだから、何等かの進め方をしなければならないだろうと、ぼんやりと思っているぐらいで、具体的な進め方を構想している訳ではない。まして、式と言えば金がかかるものだろうぐらいのことは思い浮かんでも、費用の算段をするなどということは思いつきもしない。それでなくてもこの四年間、コーヒー代は優子に依存したりして来た。だから、結局は優子主導で式の段取りは進められ、隆一に出来たのは参列者に挨拶をするぐらいのことだった。そして慌しい思いだけが残った。
 これも安直なのだが、式直後には大手書籍取次店の搬送係から、学友の案内で郵便局に転職することにした。物書き時間が取れるというからである。自局採用枠の受験である。
「集配外務だけどな、いわゆる郵便配達だ」
 郵便局勤務が五年になるという級友が付け加えると、もう一人が、
「このご時世に年柄年中職員募集の垂れ幕をぶらさげているのは、自衛隊とキャバレーと郵便局なんだぜ。クラスの半分以上が国語の教員になるって言うのに、もう少し考えた方がいいんじゃないか」と解説してくれた。
「そんなにひどい職場なのか」と問い返したのは、助言に対する礼として、一言口にした方がいいだろうと思ったからである。
 自分に物書きとしての能力など皆無であることを抜きにして、胸の中ではもう決めている。物書き修行の時間が取れる職場に移るということに。物書きになる勉強時間が取れそうだという話に魅かれていた。幼稚でもあれば、文学に対して無知だった。いわば趣味の段階だった。転職の勢いはその幼稚さ、無知さ加減に押されてのことだったと言える。
 ところが採用試験に受かって間もなく、労働組合から加入の誘いがあった。来る人が変わって連日の誘いであった。隆一は任用期間が過ぎたら加入することとした。なるべくならば、文学に関わりのないつき合いの場は増やしたくなかったが、案内してくれた学友の手前、形だけでも取繕うという安直な考えの結果である。
 任用期間が切れてしばらくした日の昼休み、課長席を五十人程の集配分会の組合員が囲んでいた。これで三日目になるから、担当区の〝猿すべり〟と呼んでいる腰掛けに尻を寄り掛けている隆一にも、集まっている凡その理由は解っている。課長が二日酔いを治すために、昼に近くのそば屋でビールを呑んでいたらしい。課長は照れ隠しに、店で昼食を摂っている職員にビールをすすめた。すすめられた職員が局に戻って組合役員に伝えた。ところがこの三日間の騒ぎで隆一にも解ったことだが、数週間前に吞みすぎて欠勤した職員が処分されていたと言う。正直に欠勤理由を申告した職員にしても、昼食を摂っている職員にビールをすすめた課長にしても、マンガチックではあるが憎めない人達で、隆一には好ましい人だと思える。むろんそれは人柄評価であって、二人とも不謹慎であることに変わりはない。
 だから、職員を処分するなら課長も処分せよと言うのが、課長を囲んでいる組合員の総意ということになるだろう。初日は次長、庶務会計課長、貯金課長、保険課長、郵便課長、労担(労務担当主事)などが、集配課長の背後を囲んで保護する感じだった。
 ところが双方の言い分を聞いていた管理者連中は、途中で引き上げてしまった。個人の問題であって、管理者が全員で集配課に出向くほどの問題ではないと判断したのだろうとは、何事にも口出ししないと気の済まない班員の分析だった。結局、組合員の集団抗議を受けて返答するのは、当の集配課長一人になってしまった。
 任用期間中であった隆一は、勤務終了のチャイムを聞くと、課長席の前で一礼して「お先に失礼します」と挨拶したのだが、課長に挨拶してから帰り支度をする職員は前例がなかったらしい。「御苦労さん」と返礼はするものの、課長も戸惑いをにじませていた。そのような五十代の男は新鮮だった。
 ところが、課長を囲んでいる最も外側の組合員の後ろに立った隆一には、思いもしない展開の場に自分を推し進めてしまった。
「川田君、君は夜勤だろ、就労しなさい」
 課長は手元に引き寄せた分担簿を覗いてから、平静を保って声をかけた。川田君がどの人なのかは新参の隆一には判らない。
「課長は問題を掏り替えようとしてますね」
 感じたことを素直に呟いただけで、他人に聞かせる気はなかった。隆一の準備を欠いた心積りとは無縁に、いきなり隆一の前の男達が左右に分かれた。隆一の前には線引きで描いたような通路ができて、その通路の先に課長が坐っている。
「前に出て言った方がいいよ」
 隣りの班の、いつもは剽軽な副班長が真面目な顔を保って、隆一の背を押した。余計なことを口走った後悔が脳裏に滲んだ。
「いや、そういう積りじゃないんです」
「いいんだよ、言うことがあったら誰にも言う権利があるんだから」
 ロッカー室で向かい側のロッカーを使っている三十代の男が、隆一の発言を促した。かと言って、無防備な放言でいいというわけにもいかないぐらいのことは、隆一にも想像がつく。この三日間の組合員達の対応を聞いていて、出れば引き、引いては押すといった遣り取りがあった。
「勤務時間中の飲酒はあってはならない事ですから、その決着を先につけたらいかがですか。欠勤に対する処分は撤回を前提に交渉することとして」
 背を押され続けて課長机の前迄来てしまったのも自分の意志でなく、言っている内容も大したことはない。とは言え発言を整理するには、日勤者と夜勤者が就労してしまえばいいわけで、課長席を囲む人はいなくなる。発言した手前、その時刻を待てばいい。
 隆一の目論み通り、課長の勤務中の飲酒抗議集会は間もなく解散した。そこ迄は隆一の目算通りだったのだが、翌週になって組合役員が隆一に頼み事を持ってくるようになった。来期の組合役員に立候補してくれと言うのである。余計な口をきいたからと後悔したが、郵便局を紹介してくれた学友との間にもそのような話が出ていることもあり、二年位ならと受諾したのが郵便局員になって八ケ月しか経っていない時であった。
 
 長女の誕生から三年後に次女が産まれ、何事にも能力が劣っていると自覚していただけに、二人の娘の父親になれたということは、隆一にとって大きな感動であった。カメラと八ミリ撮影機を買い求めたのは、娘達を記録しておくためであった。海遊びやハイキングに出掛けたのも、写真に撮り、八ミリに撮って自宅で映写するためであった。
 中に一枚、優子を中心にして長女と次女が、ビニールシートに座り、にこやかな顔を正面に向けている写真がある。三人の頭上には桜の花が咲き、ビニールシートの上には弁当箱を広げ、三人の笑顔には満足感があふれていた。写したのは隆一であり、写した後は組合の会議に出席すると言い訳をして、組合の呑み会に直行したのである。書籍取次店から郵便局に転職した理由が、文学修行の時間を確保できるからということだったが、組合の最末端役員になると酒席が増え、時間の無駄使いということが続いた。その後悔を具体的に𠮟声するのが、三人が納まっている一枚の写真だった。

 

 母が送って行ってくれた長女を、保育園に迎えに行けたのは、勤務が八時から十六時までという通配(通常郵便配達)勤務だったからだ。かと言って、保育園が十七時閉園となっているから、その間の一時間で長女を迎えなければならない。駅迄のバスの運行が乱れなければ可能なのだが、その保証はない。バスが遅れれば電車に連動し、思わず腕時計の針の位置を確認する。何の影響もないことは承知なのだが、電車の中で無意識の裡に足踏みをしている。駅の階段をかけ下り、走りながら何度も腕時計を見下ろす。すると週に一、二度は十七時を十分ほど過ぎており、園の門扉の前で、あり得ないことであるが、ポツネンと迎えを待っている長女の顔が想い浮かび、更に脚に力を込めた。園の通用口に近付くと、硝子越しの大部屋で、お八つを与えられてテレビ漫画を見ている長女にほっとするのがいつものことだったが。
 
 母の兄の市太郎伯父の通夜は、北風の寒い夜だった。町会の役員をやっていて、酒が入ると喧嘩早いが、日常は面倒見のいい伯父らしく、四メートル幅の路地の左右に五十メートル程飾りつけた花輪は、交番に届け出て構内通りの片側にはみ出る飾り方となった。家の前や向い側の開放して貰った倉庫に、石油缶に薪をたきつけておいたが、田舎から葬儀に出て来た母の次兄である鶴蔵伯父は、石油缶を股火鉢にしたままで呟いた。「俺の時は、花輪がこんなに並びやしねぇなあ、兄貴はすげえもんだ」
「つき合いが広かったからねぇ、その分、自家の者は大変だったらしいけど」
 田舎から出て来た伯父に解るだろうかと危惧したが、隆一は言い放しのままで説明を付け加えようとはしなかった。伯父も問い返しはしなかった。
隆一は路地の先の構内通りに目を向けた。車の通行が極端に少なくなった通りの方から、養父の弾く大正琴の音色が聴こえて来たような気がしたからだ。剛の市太郎伯父に対して、養父は軟と言っていいだろうと隆一は思っている。三ノ輪の古道具屋で買って来たという大正琴は、養父の操法に従って平明な音を弾き出していた。倉庫を改造した、光が差し込まない部屋の中に、音はこぼれ続けた。養父がそのように個性的な音を好んでいたとは、理由はないのだが思い至らなかった。酔って市太郎伯父が遠くの方で、スコップを振り回している姿が重なり、養父の姿は消えた。

 

約束通り二年間の支部執行委員から下りた翌年、労働組合は国鉄の組合に続いて、郵政版マル生(生産性向上運動=○生)反対闘争に入った。いわゆる〝七八年末闘争(越年闘争)〟である。本部で発行する組合新聞には〝人権闘争〟の文字が見られ、組合経験の浅い隆一でさえ心動かされるものがあった。闘争の戦術は物溜めである。年末闘争に象徴されるように、闘争は入局した頃には常態化しており、指導に従って戦術を守って来た隆一は、即決処分を数回受けている。
闘争が膠着状態になって長期化すると、地区本部から地区委員長や地区書記長がオルグに来る。「もっとブツを溜めろ」ということである。オルグを受けて支部では支部執行委員会を頻繁に開き、支部集会、集配分会集会を平行させて、オルグに沿った点検活動を持ち、闘争の確認をする。具体的にはファイバー三箱分を溜めろと数字が出る。
闘争は七十九年にずれ込んだ。労使ともに譲らずに年賀を飛ばすという、年賀制度をつくってから前代未聞の事態となった。そして、闘争は何も得るものはなくて終息した。
四月二十八日、六十名余の懲戒免職者を含む処分の発令があった。支部では隆一が休職一か月に次ぐ、減給十か月とされた。今までと違って指導部を処分するのではなくて、現場で直接郵便物を溜めた職員を処分することに変更したというのが、反マル生闘争に対する郵政の方針だったとは後に知ったことである。現に休職者も隆一も平組合員である。ただ唯々諾々と指導に従ったまでであった。
だが組合事務室で記録された被処分者名の中に、常日頃闘争を煽っていたメンバーの名が載っていないことに、隆一は気付いた。人一倍朗らかな笑顔を絶やさずに闘争を語るから、つき合いこそないものの、同じ組合の仲間だと、安易に仲間意識を持っていたのはたしかだ。だとすれば、言葉と行動の違いと言うよりも、信頼と不信の混在と言えば的確か。それが人間なのだからと、物知り顔に頷くしかなかった。だから、局の裏の居酒屋で、八班の飯島が同じ班の原田に言っている所に居合わせた時も、知らぬ振りをすれば良かったのだ。
「あんな戦術を正直に守っていたら、処分されるのは当たり前だろ。子供じゃないんだ、自分で判断すりゃいいんだよ」
三十半ばの飯島よりも年下の原田は、ニヤニヤしながら飯島に合わしている。二人とも処分はされなかった。組合員の目を避けながら、闘争期間中、どのように切り抜け、管理者の監視をかいくぐったのか。
正直という文字が胸の中を往復した。「馬鹿正直」。自局採用の試験を受けた時、庶務会計課の職員がやって来て、隆一の素行を尋ねて来たと市太郎伯父が教えてくれた。
「正直の上に馬鹿がつくような甥だって答えてやったよ」伯父は得意気に言って大笑いした。
「迷惑かけたね」
「なあに。その為の保証人だ」
 その伯父は居ない。

 

「それじゃ組織の力が分散してしまうと思うけどな」
 隆一は椅子を引いて二人の間に坐った。元々が手空き時間が魅力で就職した職場で、拘束される種になる組合に入る気はなかった。加入したからと言って、組織という言葉も滅多に使わずに組合員と付き合って来た。久々に使ったのは、反処分行動が低調になり、被処分者を放置し、処分を受けない組合員、組合で決めた戦術を実践しなかった組合員が、重い被処分者を愚弄する言動が目立って来たからだ。かと言って、自分がどこ迄主体的に闘ったかと問われれば怪しいもので、内容は上層部の受け売りにすぎないから、職場での問い掛けも軟弱にならざるを得なかった。
「組合よりも我が身の方が大事さ。誰が考えたって、処分されるようなことをやってんだから、文句も言えないだろう」
 言い募る飯島に隆一は沈黙するしかなかった。
 復職した休職一か月の被処分者田宮が、組合の行事に出なくなった。休憩時間には将棋盤を囲む仲間の一人だったが、今では班から離れることはなく担当区の〝猿すべり〟に腰を掛け、午後の就労時刻を待っている。貼りつくように担当区から動かない姿からは、人間不信、仲間不信、組織不信の文字が滲んで来る。隆一が田宮と違って職場の同僚と繋がっていたのは、職場山岳会や職場文学会など、サークルの一員として残っていたからだった。
 隆一が組合活動から遊離するまでもなく、組合がその存在を示す場を極端に減らして行った。指導もなければ強制もない。集会やリクリェーションもなくなった。且つての職場点検活動や抗議活動は話題にすら出なくなった。そして、組織としての方針の大転換は、何年かをかけて方向付けられ、以前の〝闘う組合〟の姿は消滅した。ただ、良し悪しを除けば隆一には、一九七八年という年数が、強く刻みつけられたことだけはたしかだった。
 身の回りの変動に煽られ、同人誌に載せている創作が充実することはなく、時間は常に過去になって、隆一は四十歳近くになっていた。それも、書くべき父を振り返る暇もなしに。

 

6 養父の故郷

 

読書会で採り上げる葛西善蔵の「子をつれて」を書店で探していた時、佐多稲子の文庫本に手が伸びた。ひとつには新日本文学学校での記憶がよみがえったからである。三十年程も前の合評会で指導してくれたのが佐多稲子で、何も分からないままにクラスの司会を務めたのがサブチューターを任された隆一だった。職場では反マル生闘争に敗北した組合が方向性を失ったも同然になっていた時期である。集配課(配達)の仕事を続けながらも空白感に手をこまねいていた矢先、従来から続けていた文芸同人誌活動を確かなものにしたいと思いつめた結果が文学学校への通学だった。
事務局でつくってくれた隆一ら三人のガリ版刷りの原稿を、佐多稲子は優しく講評してくれたのだ。誉めることこそなかったが、けなすということがなく、和服姿の佐多稲子の温かい印象が記憶に残った。それ以来のファン。
手を伸ばしたもう一つの理由は、「夏の栞」という題名のサブタイトルに「中野重治をおくる」という文字が刺々しく見られたからである。亡くなった養父を「夜の明滅」に書き納めてないことを、責められている痛みが伝わって来た気がしたのである。かと言って、「おくり納め」られるだけの材料がないのは事実であるし、父と最も触れ合えた幼い頃の記憶は曖昧になるばかりだった。
 養父の甥である木村松五郎の死亡が伝えられたのは死後一年程経ってからであった。隆一は父を知る唯一の親族の死に、自分の迂闊を嘆いた。養父の姉の長男である松五郎は、養父を語って貰うに好都合の人のはずだった。養父の親族で養父と隆一の小さな家に出入りしていたのは松五郎一人だったのだから。他の甥や姪は、何かの折に会ったことはあるはずだが、改めて親類づき合いをしたとは言えなかった。松五郎本人も結婚してからは足が遠退き、隆一もその隙間をそんなものだろうと思っていた。
 隆一が養父の生誕地小川町を尋ねる気になったのは、松五郎の死で父を知る人が居なくなったという思いからのことだった。小川に行けば、菊島家を知る人が見つかるかもしれないという、曖昧な根拠を頼ってのことだった。小学生の頃、養父の養生について行った記憶しかないのだから、養父を知る人が見つかる当てはなかった。強いて言えば養父の誕生地ということに、依拠するしかないという薄弱な根拠を頼りとするものだった。
 隆一は四十五歳になっていた。三十五歳の反マル生闘争から十年が経ち、文学学校と長女の入ったユニークな中・高一貫校でのボランティア活動など、熱を向ける場に事欠かなかった。

 

 氏家駅の待ち合い室から見える駅前通りに人影はなかった。電車から下車して、すでに十五分程が経っている。バスの到着予定時刻までにあと二十分ほどだ。それでも一日に九本しかない中の一本のバスに乗るには、最も待ち時間が少ないとは、宇都宮駅の案内所で教えられたことだ。宇都宮駅を出発したバスを、電車で東北線氏家駅迄追って、先回りすれば時間が節約できると言うことだった。
 駅前通り同様に、駅員がいるのかどうか判らないほど、駅舎の中もひっそりとしていた。見える範囲では、いわゆるシャッター通りということになるのだろうが、開いているのは小さな洋品店だけだった。
 母と再婚した養父の実家には、七、八歳の時に初めて連れて行かれた。養父のおできの治療のためだった。勝の死後だったのだろう。那珂川のほとりによしず張りで営業している温泉が、おできの治療などに効果があるということだったらしい。建具屋の一室で、母に手伝って貰って養父は、〝たこの吸い出し〟を尻に張っては温泉を往復したものだった。養父が健在の時に隆一がその家に数日を過したのは、その時だけである。養父の両親も健在であったはずだが、風貌などは一切記憶に残ってない。
 どういう訳か、その後で養父が街道沿いのその村か町を訪ねたという話は聞かなかった。南千住の倉庫改造アパートを、養父の縁者が訪ねて来たということもなかったはずだ。その地は隆一にとっては勿論のこと、養父にとってもそれだけの地でしかなかったのかもしれない。
 優柔不断な隆一が断定できずに迷っていると、路地から駅前通りに走り出て、体勢を低くした朱色のバイクが次の路地に消えた。見間違うはずもない、郵便外務員のバイクだった。隆一も免許の取得を再三計画係から勧められているが、合理化に反対するという組合の方針がなし崩しになっても、自転車配達にこだわっている一人だった。組合も遠の昔に方針など雲散霧消という状態であるのに、バイク乗務を断り続けることは、漫画チックを越えて馬鹿げた行為と言えた。ただ体の不調が増えれば、いずれは免許を取ることになるだろうことは、当の隆一にも予測できることだった。
 バスが初夏の熱気の中に、車体を揺すりながら駅前通りの二百メートルほど先に現れると、もう一度腕時計で時刻を確かめてから隆一はバスの行き先表示板を見やった。小文字の表示板は、三十メートルほども近付いてやっと訪問先の地名を隆一に知らせた。
 バスはいかにも地元に住み暮らしている人だけを客としているように、隆一には無愛想としか思えないくらいな間合いで走り出した。時刻は出発までにまだ三分はあるはずだった。
 駅前の寂しい町並みをバスが抜けると、人の姿はまるで見られなくなった。多少人家が増えても、そこを町とは言いかねる寂しさが、田畑や山林に囲まれた一角にあった。街道は、その寂しい集落と似たような集落を遠慮気味に結ぶ線でしかなかった。いくつかのバス停で、一人乗れば二人が降りるといった具合の増減を繰り返し、五、六人の乗客数はほとんど変わりがなかった。そして客の誰もが寡黙だった。それらの静かな光景を繰り返し目にしていると、隆一は自分の遠い昔に連れ戻されて行くようで、訳の解らない不安が湧いてくるように思えた。そこがどうしようもない暗さに包まれていると思い込んでいるから、なお更であった。
バスが四十分程走ると、三輪のバス停名が標示板に出て、アナウンスもあった。四十年前の記憶では、家は橋のたもとの一軒だけで、周囲には田が拡がっていた。その一軒が養父と訪問した養父の姉宅だった。それがいま、田は消えて人家が橋を囲んでいた。三輪という、響きのいいバス停名に誤りはないはずだった。隆一は動き出したバスの座席で体をねじり、前後左右の光景を記憶の底からひねり取った。スピードを上げ始めたバスの座席から点検したものの、橋を囲む家々は見覚えのないものばかりだった。
 隆一は混乱したままでブザーのボッチを押し、バスの行く先を見つめながら落ちつかないままに立ち上がっていた。こんなに早く記憶の世界が迫ってくるとは、記憶が曖昧とは言え、混濁の度を深めたようだった。

 

(美代子、それじゃ一匹もつかまえられなかんべ。網を貸してみろ)
 母と一日交替で見舞った病室で、養父の寝言を聞いたことがある。夕食前の昼寝が延びてしまった夕刻であったはずだ。優しさを惜し気もなくにじませた、養父らしい口調だった。
 帰宅後、母に養父が口にした人名を尋ねると、(従兄妹だんべ)と、にべもない返事が返って来た。それで名前の主が判明した安堵感よりも、母の棘のある返事が解せなかった。美代子という人が三輪の長女であることは、養父の死後に母から聞いたことだ。その人がこの橋のたもとの家に住んでいたという話は気をそそられることだった。隆一の記憶には残ってないが、養父のおできの療養中に立ち寄ったはずであり、昭和七年生まれだと言うから、まだ還暦を迎えてない計算になる。
 それならば、養父のことを聞くには好適の人となるが、母の話では(嫁に行ってるから三輪には居なかんべ)ということだった。しかも、病室での寝言に出て来た養父の記憶は、南千住や西新井にはなくて、魚取りをしている二十歳前後の小川時代の自分と従兄妹の姿であったらしい。すると隆一は、養父との距離の遠さを、改めて確認せざるを得なかった。法律に規定された親子関係などよりも濃密な、改めて言うならば、亡くなった勝を横抱きにして泣いてくれる心情を伴った親子でなければならなかった。そしてそれは永遠につかみ取れないことを隆一は確認せざるを得なかった。
 それまで間遠だったバス停が、三輪を過ぎるとひんぱんに止まるようになった。それは三輪が集落の出入り口であることを示していた。隆一は周囲をむさぼり見た。どこかを見れば記憶に触れるという確証がないだけに、かすかな記憶と目の前の光景を即座に見分けなければならなかった。その結果という訳でもなしに、隆一は「上町」というバス停留所で下車した。バスの進行方向が終点の馬頭に向いているように思ったからである。あく迄も感にすぎず、根拠などはない。
 隆一はバスがカーブで消えると、自信がないなりに後を振り返ってから歩き出した。メモした所在地は、父が書き込んだ住所録から書き写して来たものだ。四十年前のメモだから、正確かどうか心許ない。そのメモを除けば、光景の記憶頼みで頼りにならない。家の前の用水路は水が澄んでいて鍋釜や食器類を洗い、道路は直線で家が並んでいたという記憶だけ。泊っていた毎朝、朝もやの中から納豆売りの老婆が現れ、そしてもやの中に消えて行った。明治維新の事業を少し遅らせて、敗走する新選組の面々が、北に向かって行った道であるとは、歴史書で読みかじったが、後日納豆売りの老婆を思い出す度に、この同じ道を歴史が動いて行ったのだと、隆一は養父の故郷を思い返したものだった。
 庭先で洗濯物を物干し竿に掛けている、六十代と見える女性がいた。
「菊島さんはいくらでもいるからね。この道路の並びだけでも五、六軒はいるよ。実蔵さんね。聞かねぇなぁ。一度東京さ出たら、帰ってなんか来なかんべ。忘れちまうかんな。同じ年代の人は、もう死んじまってるしよ」
 隆一は物干しの手を止めさせたことをわびて、その場を離れた。女性の話を聞きながら、その話し手に対してというよりも、聞いている自分に対して「えっ?」という思いもよらない問い返しを胸の中で聞いた。養父がその女性には知らない人になっており、忘れられた人になっているというからだ。それは女性だけのことではなく、小川という町中の人々が一般化しているであろうと思われるからだった。
 交差点迄戻った隆一は、三方の道路に水路を探した。三十七、八年前に連れて来られた時には、まだ澄んでいた水路を。それらしいのは暗渠になっていて、水の姿は見えなかった。点々と続いている指掛け用の穴を目で追ったが、喪失感を加えはしても自分を納得させる材料とはならなかった。
 交差点を渡った隆一は、道路沿いの左右の一軒、一軒をじっくりと見回してから歩いた。前方の交叉点迄の中途迄来た時、隆一は背後を振り返り、右手の家と家の隙間の先に見える田と那珂川の土手を確かめた。三十七、八年前、土手を下れば河原によしず張りの温泉が営業しており、隆一は父と母の三人で浸かりに行ったのだ。位置的にはこの辺りだと、父の実家を想定できる。ただ自信をもって確かめられないのは、建物の造りに記憶がないからだった。道路沿いの土間は建具屋として使用するために広くとってあり、父の長尻が土間と板場に材料を広げて作業をしていた。その構えがないのである。と言うよりも家そのものが違う。
 隆一が行きつ戻りつしている姿をいぶかしく思って出て来たのか、四十代の女性が「何か」と問い掛けて来た。どのように答えるか準備もしてなかったが、尋ねたいことは一つであるから迷いもしなかった。そして返事は失望を強めただけだった。
「確かに住所はその通りだが、十五年前に買った時は、そんな名前の人ではなかったね。養女に婿養子を貰ったが、二人とも逃げたとか聞いたな。名前は同じ人がいるから、何かの間違いじゃないかい。この先に支所があるから、そこで調べて貰ったら判るんじゃねぇかね」
 支所と言う名称が戸籍謄本や住民票を思い浮かばせたが、それらを取り寄せる才覚もなしに記憶頼りで出掛けて来てしまっている悔いが湧いた。
 養父からそれらの用紙を見せられたこともないし、これ迄にその必要もなかった。小川に養父の親族がいたとしても、養父自身がひんぱんに訪ねて来ていた様子もないし、ましてや養父が小川の親族との交際を隆一たちに求めもしなかったから、隆一がこの町に出掛けてくることもなかった。助けも助けられもしないでも、日常の暮らしに支障がなかったし、新たなつき合いを求めなくともこれ迄の生活で充分であった。強いて養父方の親族交際の場を増やす必要がなかったが、迂闊にも今になって判ったことだが、結果として、養父を書くための資料を集められないことになった。小説もどきであるのだから、材料を無視して創作すればいいのだが、養父のことは創作するものではないと、隆一は思い込んでいる自分を認めていた。だから年上の従姉弟やはとこの何人かから話を聞いて回ったのも、充分な材料で養父を浮かび上がらせたかったからの事だ。
 隆一は教えられた支所に向かいながらも、空しい期待を振り払っていた。すると左手前方に寺の山門が見え、隆一は道路の前方を見やったものの、吸い込まれるように山門を潜った。
 寺は門を入って右手が寺務所と本堂が並び、左手が墓地になっていた。寺務所の硝子戸越しに人の姿は確かめられず、本堂も締め切っている。隆一は五十基ほどの墓石を一基ずつ見ながら折り返し、二列目も折り返しまで歩いた。それ程広いわけではないから見終わる迄に時間はいらない。思った通り、五基の墓石に菊島家の文字が見えたが、建立者の名に見覚えがなかった。ただ、バスから降りてから質問に応じてくれた女性が言っていたように、この町に菊島を名乗る人が多いことは確かだと認められた。しかも思いがけないことだったが、隆一の血の上での父の姓が三基あった。臼井と彫られた文字を、隆一は指でなぞってその場を離れた。隆一にはそれ以上のことは出来なかった。
(そうそう、うまく行くもんじゃないさ)
 教えられた支所に向かいながら、隆一は自嘲気味に呟いた。元々が資料らしい資料を用意もせずに出掛けて来たのだ。当てずっぽうに期待した所で、好結果など期待できようはずがない。
 那珂川町役場小川庁舎では、隆一の乏しい記憶にもとづく説明に対して、地図のコピーを呉れた。
「小川町役場はないんですか」
「平成の大合併で没、ってところです」
 コピーを渡してくれた中年の職員は気の毒そうに言うと、軽く頭をさげて自席の方に戻って行った。父を知る手蔓が遠退いて行くように思えて、隆一はカウンターのコピーをていねいに折り畳んだ。
 木造の階段を降りかけると、歩いて来た上町の交叉点から小川町役場西の交叉点までの直線道路が、朝もやが薄れて行く光景に似ていて、思いがけない早さで遠退いて行くように思えた。隆一は減燈して薄暗い階段を足早に降りた。あとは川沿いにあるよしず張りの温泉を確かめるだけだと、一途に想った。ひまわりの花の傍らを歩いていて花に気をとられることもなければ、畑の生り物を振り返ることもなかった。農家らしい建物の間を抜けて畦道に出たとき、田の先に近代的な建物が見えた。丁度、よしず張りの囲いがあった辺りである。大きな屋根や幾棟かの建物が配置され、市や町の活性化の材料とされるものと思いついた。
隆一は顔を上げてその建物をみつめたままで畔道を走った。その建物がよしず張りの温泉の代わりと思いたかった。「まほろばの湯 湯親館」掲額にはそう彫ってあった。建物から出て来た年配の女性の一人に尋ねると、「よしず張りは〇×さんのとこじゃねぇかね。この先でやってたが、今じゃ立派な家を建てて、温泉はやってねぇよ」
 よしず張りの囲いなど、現代にはそぐわないのだろう。近付いて建物を確かめたところで、四十年前の光景など連なり出てくるものではない。隆一はいつもの未練たらしく見つめることもなく、一、二歩たたらを踏むようにしてから元来た道に戻って行った。

 

その年、「南の家」の跡継ぎである又従兄弟の敏明伯父と、世田谷に住む三女の照子伯母が相次いで亡くなった。顔立ちをすっかり忘れてしまったようなつき合いであるから、電話連絡を貰ったとき、隆一は無様にも受話器を耳に押し当てたままで、名前の主を探していた。背景であるはずの村の光景を当てはめようとしても、ガスタンクのふもとの街に移ってからは一度も会ったことのない伯父、伯母の顔は不鮮明なままだった。幼い隆一が世話になった「南の家」の長女は東京に移ってからも交流があったから忘れようがなかった。親せきだと念を押されない限り、他人と変わりがなかった。まして敏明伯父は誰にも相談せずに、且つては十四、五人の家族が暮らしていた南の屋敷を売り飛ばしてしまったらしい。親類中では、要注意人物ということになっていた。それが東の路夫同様に宇都宮のアパートで死んでいて、警察に発見されたと言う。周囲では冷ややかであったらしい。
電話を寄越した敏明伯父の末弟三郎は、隆一の思いを察したように、「葬祭場は駅で尋ねれば判ると思うんだ」と用件を締め括る挨拶になった。又従兄弟と言っても、二歳年上の三郎は、意思が伝わり易く、それも数年に一度は会う機会があるからだろうと、敏明との違いを隆一は推察していた。それにしても、東の路夫にしても、南の敏明にしても、北のシズカ伯母も、いずれおとらず寂しい死を迎えたものだと、隆一はこれ迄の親族の死を見返した。とは言っても、生き残った者が死者の死を確認しているだけで、死が孤独か寂しいかは、死者に判ろうはずはない。と言うことは四十数年前、養父に横抱きされ、泣かれていた勝は、自分の死に直面したものの孤独にさいなまれたとか、寂しかったとかを思いもしなかっただろうと隆一は推測した。ましてや父が自分の死を泣いてくれたことを勝が喜こんだとは思いにくいことだった。すると隆一は書棚から般若心経を抜き出し、読み直していた。

 

五十三歳の年、勤務中に計画係の電話口に呼び出された。相手は北海道からで臼井と名乗った。
「父が会いたいと言うんです」
明朗であるが軽薄なところはなくて、電話相手の品のよさを想像させた。
「洋子さんが来てくれた時から、十五、六年ですね」 
 郵便物を組み立て終えたら、すぐにも配達に出ていきたいあせりがありながら、隆一は若々しい相手の声に浸っていたいと思っている自分に困惑していた。
「洋子は郡山で三人の子供の母親になりました」
「もう、そんな年代になってるんですね。お父さんはおいくつですか」
「七十八歳になります」
「お元気なんでしょ」
「それがそうでもないんです。気が弱くなったということもあるんでしょうが」
 隆一は言葉を呑んだ。記憶に残ってない人のことで、親しげに話し合っていいものか、迷ってもいる自分に疑問も湧いた。
 自転車配達だから、バイク配達の人以上の速度が作業の全てに求められており、その自覚があればこそ、無駄は省かなければならない。この二十余年、口に出したことはないが、思いはいつもそこへ落ちて行く。だとすれば、電話の応対も早々に切り上げねばならない。隆一は壁に埋め込んである時計の針を見やった。十時十三分。区分口の数にして、あと四口。休憩時間に食い込んでも、午前中に片付けないと、午後の作業が厄介になる。  
「洋子さんにも言ったと思いますが、両方の母親に隠してのことになり、好ましくないと思うんですよ。素気ない話で申し訳ありませんが、お父さんにそのようにお伝えいただけませんか。僕の方では、亡くなった親父にも隠さなければなりませんから」
「そうですか」
 その後でどのような遣り取りがあったか、隆一には正確な記憶はない。言葉が雑になったり不快感を持ったというようなこともなく、お互いに感情を荒立てるようなこともなしに受話器をおろしたはずだ。洋子の訪問への対応を見ているから、大よその推定もついていたのではないか。隆一が確かに憶えていることは、小走りに担当区に戻り、午前の分として残る四口を配達順に組み立てて地下の駐輪場にファイバーを抱えて下したのは十一時だったことだ。普段より三十分遅れで、その分、休憩時間に食い込むのも覚悟しなければならない。見ない振りをしている、計画係の隣に席を持っている第二集配課長が、ブツを残したりすれば、勤務時間中の電話応対を注意するという形で文句を言うのは目に見えている。ささいな失態をあげつらうのが、毎度のことだからだ。定時より二十分程遅れて事故処理まで終えたとき、北海道からの電話の声がよみ返った。(そうですか)

 

母の従姉妹苗子の突然の死が伝えられたのは、隆一がペースメーカー埋め込み手術を終えて、東京逓信病院から退院してからだった。隆一の手術が急なことでもあったからだが、日常的なつき合いがあった訳ではないだけに、通知も遅れ気味であったらしい。たまに知らされる体調は良好で、その日もママさんバレーの練習中であったと言う。上京するまで苗子が住み暮らした「南の家」が、幼い隆一が預けられた三軒の内の一軒で、隠居の〇子同様、「南の家」では長女の子らが専ら隆一の面倒を見てくれたようであった。梅島に転居した五、六年頃、アパート住まいの「南の家」の三姉妹が、風呂を使いに来ては、高校生の隆一に、二、三歳の頃の隆一のやんちゃ振りを種にして、冷やかし半分に語っては夜の道をアパートに戻って行った。末妹の苗子は姉二人のおしゃべりに調子を合わせながらも、隆一の記憶には薄い存在だった。
その苗子が還暦を迎えずに逝って間もなく、苗子の次兄で「南の家」の次男に当たる豊治が亡くなったという知らせは同じ千葉県でクリーニング店を開いている、「南の家」の三女の鈴子から間を置かずに届いた。
通夜の知らせでもなければ、滅多に顔を合わせることもない間柄だから、知らせがあったからと言って感情を揺すられるということはなかった。全てが事務的に進められた。母がいつものように、「私が行けば義理は済むんだから、お前は行く必要はねえ」と、母の従姉妹達と車で通夜に出向いたのも、その進め方の一環である。隆一が六、七歳まで育てられ、その後も一夏休みは預けられた村の光景は、隆一にとって大切な記憶になっているが、村を離れて生計を立てている伯父叔母や従兄弟にとって、それ程深い親しみがあったとも言えないようだ。
母の次弟であった良郎叔父が肝臓がんで亡くなった時、隆一は村から四キロ手前のまだ活気のあった町の中を、自転車の荷台に隆一を乗せて走り回っていた二十代の良郎叔父を思い浮かべた。祖父と不仲であった祖母と姉のタメ叔母の三人で村から町中に移っていた良郎叔父は、修行を終えて自宅でパンを焼いていた。いずれ店を構える準備段階であったのだろうが、隆一にはその詳細は判らない。村の三軒の人々同様に、町中住まいの祖母と末男末女に隆一は世話になった訳だ。
その隆一が般若心経の解説書を買う気になったのは、読み物として方丈記、徒然草、平家物語などを読んでいた気持ちとは大きなずれがあった。読んで楽しむという温やかな気分からは遠かった。安直ではあるが良郎叔父の今が、且つての生前の叔父とは大きな違いがあるように思えた。それも住み暮らす世界が、と思うと、般若心経に傾くのは当然な成り行きであった。それも、沢山の解説書があるという中の手近かな三冊を買って読みくらべた。
実父逝去の知らせはその年の年末だった。

 

「前略 過日は父上がなくなったとの通知電話をくださり、ありがとうございました。伝え難い、話しにくい両親の離婚に始まり、私たち腹違いの兄弟という関係を言葉を選びながら明らかにしてくださったことに、感謝しております。
免許センター勤務の友人の協力を得て私どもの住所を調査されたとのこと、さぞ難儀な調査であったこととお察し致します。それもこれも父上の遺言(志)からのことと想像できますが、御承知のように郵便外務員である私は、十二月二十九日午前十時となれば年賀最繁忙期のピークという日時でした。局内電話のベルの音、私の背後を通る同僚の息づかい、刺々しいやりとり、ヒステリックな笑い声など、おそらく北海道十勝という地にも届いたものと思います。人様の年の区切りとなる年末始に届ける年賀状を、歳も意識も区切りなく作業に追われて年を重ね続けるのが私たち郵便屋なのですが、時間を突然途切らせられた戸惑いも、そちらに伝わったものと思います。
電話でも話しましたが、二十八年前、洋子さんが埼玉まで来て下さった折、妹の洋子ですと名乗られて、複雑な言い方ですが複雑な気持ちでした。
指定された駅前の喫茶店に向かいつつ、実母の勘気にへきえきしていたこともありますが、自分に妹がいたことを喜びも、実母が今後どのような無理無体(他人には想像もできないことでしょうが、ああしろこうしろの命令は序の口で、従わないときのヒステリーには今も悩まされています)を言いだすか判らないと想像すると、実母にかかわる新しい縁はつくるものではないと、その時は即座に諦めたものでした。そして母には内緒で来ましたと、いう報告に、父上(残念ながら私にとっての父は二十八年前に亡くなった養父であり、今回亡くなった方は貴方の父上、としか言いようがありません)の幼かった頃の私への案じ方が想像できました。
私が二歳の時に、縁者の説得もあって実母が離婚をしたと聞いていますが、父上がその後の私の生活を気づかわれたことは、今は勿論のこと、当時も想像できたものでした。北海道で仕事をみつけるから待つようにというのが父上の意向であったとのこと、洋子さんからお聞きしました。
日常の細かな事一つでも、待てない人が実母ですから、洋子さんの話には納得がいきました。まして一方の話だけで事を進めるうがった人が実母の親族の多くです。事に当たって思案・検討の余地のない人々です。とは言え実母であり親族ですから、困ります。縁を切るわけにはいきません。
電話をいただいてすでに二週間、何の返事もせずにいぶかっておられたことと思います。日本の郵便屋はこの二週間が過ぎてからが自分の時間を持てるようになり、とどこおっていた私事の片付け時期となります。むろんその間にも御返事の仕方、香料、弔問などを考えて来ました。また父上が案じておられた私の生活の報告など。洋子さんに訪問いただいた折もそのままとしましたが、今回も相方の母のことを考えると、前回同様に何もしない方がよいのではないかと考えました。御無礼を承知で、本状のみで御挨拶申し上げる次第です。皆さまにはよろしくお伝えください。古い言い方になりますが、縁がなかったということになりましょうか。御配意、本当にありがとうございました。さようなら。」

 

7 退職

 

「どうせ、キクさんの区を早く組み立てても、キクさんが担当分を組み立てるのは遅いんだから、俺の区を先に組んでよ」
 隆一の耳に同じ班の寺田の声が響いたのは、午前十時を回った頃だった。班員の多くは班長、副班長を含め、出発したか出発準備をしている。ユウメイトという名称の組立て要員は、郵便局周辺の主婦が主体で、各班に一名から三名が配置されている。決められた順番通りに組立てるつもりで、「組立てさん」が隆一の担当する区分棚に来かけたとき、寺田の声が響いたのである。
 隆一は「組立てさん」の「えっ?」という短い声を聞いた。応えてやれるのは自分しかいないのだから、彼女を安心させるには班で最年長の自分が応えるしかない。「いいんですよ、田中さん、彼の区を先に組んで下さい」
「組立てさん」の田中さんは、もう一度「えっ?」と問い返してから、今度は「いいんですか?」と隆一に尋ねた。隆一が応諾の返事をする前に「いいんだよ俺の区を組んでくれれば」と寺田がぞんざいに答えた。四十半ばの声に逡巡も遠慮もなかった。隆一は、人事交流という名目で、不本意に転勤させられて来た寺田の荒み振りを、毎度のことながら苦痛で受け止めた。仕事上のことで、班の誰かが注意すると、「俺は好きで移動して来たんじゃねぇや」と、見当違いの応答する。班で新年会や新人の歓迎会をやっても参加することはない。それは寺田一人のことではなく、集配営業課の職場全体が形は違うだけで同じような反応に満ちている。
 隆一が局に入ったばかりの頃、当時班長の白田さんも今の隆一よりも腕が悪かった。班の誰かが応援しなければ完配は出来なかった。そして相互援助が当然だという職場風土を感じ取るのに数か月も要さなかった。しかも白田さんは〝生き字引〟となって班員に応えていた。班にある五区全ての住人の関係に精通していた。その白田さんも国鉄と郵便局に定着していたジンクス通りに二年も経たずに亡くなった。「年金をつかわない内に逝っちまった」というのが同世代の感想だった。
 そのような昔話をしたからと言って、寺田が班に馴染むはずもなく、かえって反発を受けるのが関の山だろう。それよりも考えねばならないのは、担当区一区の時間内完配もおぼつかない自分の能力を検討しなければならない。本人がいる場では挙げつらうことはなくとも、居ない場で槍玉にあげることはよくあることだ。幸い、つき合いの薄い、寺田が遠慮なく指摘してくれて、隆一は自己検討を他人にみせることなく進められそうに思えた。前年、隆一よりも十歳若い職員が依願退職した例もある。五十歳前の退職だから嫌でも目につくし話題にもなった。勤務中に際立った失策をした訳ではないから、なおさらだった。三か月程した夜、局に近くて集配営業課の職員の溜り場である居酒屋に現れた彼は、アルコールが進んだ一人から問われて、「仕事がきつくなったんだよ、小柄で体力もないし物は重くなるし、量が増えたし、それに営業だろう」と率直に応えた。隆一は深い溜息を吞み込んだものの、言葉を口にできなかったのは、彼への同情からのことだった。いずれ自分もと、見えないなりに自分が負う重しを連想していた。
 自転車からバイク乗務に切り換えて間もなく、集配営業課では合理化の象徴である脚の筋肉の衰退に気付いた。自転車配達の頃は筋肉が張っていることを意識もしなかったが、いざ衰退したすねに気付くと、バイク乗務の欠陥を見せられた。五十歳を越えてからの免許取得であるから、バイクを自在に乗り回すと言った様にはならない。むしろ、すねのたるみに併せるように、膝の痛みを感じるようになり、目に見えない苦情がいつの間にか拡がっていた。
 五十七歳の春、退職するつもりでいることを妻に伝え、退職金の割り振りを妻と相談した。福島県に十五、六年前に買って置いた土地と倉庫のローンの支払いに充て、ローン未払い分は妻の退職金を充てるという計算である。
 妻からの条件は、自分の小遣いは自分で算段しろというもので、隆一の職場でのあれこれや退職後の心積もりについては読む、書く、ボランティアの里山の手入れの三つは左程聞き入れられないことはなかった。

 

 二集担当課長が六つの班をのどかな問い掛けをして回ったのは、翌年の一月下旬だった。
「勧奨を受ける人はいるかぁ」
 日常的にていねい語を使えない管理者であったから、期待はまるで含まない問い掛けが上滑りに流れて行った。毎年繰り返されるセレモニー消化は短時間で終わるはずだった。二集の六つの班を巡って声がやんだ。〝ブツをこする〟音が元に戻った。その時、隆一は「受けるよお」と二集課長並みに品のない応え方をした。二集課長は計画係の隣の自席に体の向きを変えたところだった。隆一はその後姿をつまみ取るように流し見た。
「えっ? 本当かよ」
 二集課長は七班の五基の区分棚に向けて小走りに寄って来た。満面の笑みを浮かべている。その顔を見ると、勧奨退職は課長の成績に加点されると言った者がいたことを思い出した。
 それから二か月間、「人員不足だから」と言う理由で、班担当の課長代理は隆一が取得権利のある年休消化に充てはめることなく、全て出勤扱いとした。
三月三十一日当日、局長室で退職辞令が交付され、管理者に囲まれて昼食をとった。退職金の計算書、振込先の確認など、貯金課の応接室で待たされ、全ての事務的な処理が済んだのは、勤務終了のチャイムが鳴ってからだった。
組合と班から打診された送別会は、体よく断った。勧奨退職が決まってから、ロッカーに詰め込んである物品は少しずつ運び出しておいたから、退職当日の持ち物はタウンザック一つだった。明日から出入りする必要がなくなった通用門を出ると、背後から声を掛けられた。二集課長だ。手落ちはないはずだがと身構えると、「この本は菊島さんが出したんだって?」これ迄は「キクさん」と崩していたはずだ。
二集課長は一年前に隆一が出版した短編集をかざした。貯金課長の応接室で退職金の清算を待つ間に、配って来たのだが、二集課長は不在だったので、課長席に置いて来たのだ。
「うん、そうだけど」
「ふうん、本を作るなんてことをやってんだ。初めてだな、局員の作った本を貰うなんて」
「そうかな。目につかないだけじゃないかな」
「いや、すごいよ。今度来たら俺のとこに顔を出してよ。それだけなんだけど、それじゃ」
隆一は軽く頭をさげただけで、通用口に入って行った二度と会うことがない男の一人であるはずの二集課長の後姿を最後まで見ていなかった。
形式的ではあれ、退職を勧奨して回った男も来年は定年だと言う。管理する者と管理される者との差はあるものの、それぞれ一人になっていくことに違いはない。職場に居る時は管理者として居丈高な姿勢も維持できようが、一歩通用口から出ればそれも通用しない。二集課長を演じている男の退職後の生き方は、来年通用口を出た時はゼロからのスタートということになる。隆一は地下駐輪場で、バイクの荷台に郵便物を詰め込んだファイバーを載せようとしていた時、薄暗い中で「キクさん、大丈夫かよ」と声をかけて来た男の本音を思い返していた。
減燈方針の薄暗い地下駐輪場で、声を掛けて来た男の姿の方が、鮮明だったからだ。バイクの荷台に郵便物を詰め込んだファイバーを載せようとしていた時だった。「キクさん、大丈夫かよ」
薄闇の中で、男の声に呆れ果てたと言った思いが込められていた。ファイバーの扱いに手古摺っている姿にいらだってのことだろう。
「何が」
 隆一は強いて冷静を保って問い返した。課長が隆一の退職をすすめていることはニュアンスで判る。
「まっ、いいけどさ」
 明朝のミーティングの材料を拾ったからのことか、言い出した時よりも軽々とした足の運びで階段の陰に消えて行った。
 班長だった白田さんも、定年間際には誰からとなく追い立てられるような日々を重ねたのかもしれない。事務職とは違い、それが肉体労働の宿命ということになると自覚したのは、膝の痛みがとれなくなってからだ。反射神経が鈍くなって道順組立てが遅くなり、体の一部に痛みを感じるようになると、選択できる道などはない。退職あるのみだ。それも加齢する迄は想定も予想もできなかった孤立を、思いがけず確実に体験してみると、人の世の果かなさを一人でかみしめて来た。
 出世は悪だ、管理者は悪だ、宗教は麻薬だと繰り返していた組合役員の言葉を盲信し、出世競争にのり込まずに生きて来たのが正解かと自分に問いかけざるを得なかったのは、当の言葉を繰り返していた支部組合指導者が班長、課長代理、副課長と、職制の階段を昇って行ったからだ。隆一が進路変更するには、時期が遅過ぎた。組合は最後の闘争になった反マル生闘争に敗北し、懲戒免職の多くの犠牲者を出し、求心力を失い、処分をたて続けに受けて来た。
 隆一に、方向を変更する余地はないうえに、自身が方向性を検討する余力などなかった。三十歳前後から闘争に参加し、四十代で敗北後は文学学校に通い、娘達の進路に合わせて父母会でボランティア活動、五十代からはボランティアの継続と三十年来の同人誌活動を継続し、体の不調で我に帰ったという不様さだ。

 

 職員として出入りが出来なくなった通用門の前で立ち止まった隆一は、五十八歳か、と改めて自分の年齢を思い起こした。振り返ったのは、養父が個人タクシーを廃業して中野病院に入院した年の年齢と同じだということだった。隆一を連れて地主宅をおとずれたとき、父も無力感にさいなまれていたのだろうかと、隆一は思いをめぐらした。その日から、養父は周囲の者の手助けに頼るしかなかったはずだ。力を失い、わずかではあれ、自由になっていたはずの金を失い、どこから、或いは誰から力を得ようとしていたのか。隆一の知る限り、養父は何とも頼りない思いに囲まれていたのではないのか。それでなくとも、養父は我儘を口にする人ではなかった。我を通すよりも、周囲に迎合して波風を立てまいとする人だった。それで温やかに日々を生き延びて行く人だった。入院というある種の拘束も、受け容れることで失った力を回復させたのかもしれない。それは仏教の教えではないか。多くの人がそうであるように、日常的に仏の教えを実践するということはなかったが、良寛の評伝を四、五冊読み続けて来た隆一は、養父は孤独を日常化し得たひとではないかと思い定めた。つい最近のことである。
 隆一は半開きの通用門の隙間をすり抜けて、地下鉄の駅に向かう歩道を歩きはじめた。前方から来る赤いバイクがクラクションを鳴らし隆一の傍らで停まった。
「送別会を断ったんだって」
 夜勤の補助便からの帰りらしく、ヘルメットの下の顔を振り向けたのは生田だった。十歳程年下のはずだ。
「ああ」中味のない呑み会は結構だとの思いは呑み込んだ。この三十年余で繰り返した送迎会は決まり切ったものだった。主役が自分以外の時は出席した。同席する人達と同様の対応で二時間をつぶした。しかし、それは職場のつき合いとしてのことで、それ以上でもそれ以下でもなかった。大部分の同僚は歓送迎会は呑み会と心得ていた。そしてそれが正解と言わなければならなかった。
「呑み会なんか、いつでも出来るだろう」
「ま、そりゃそうだが」
 生田はヘルメットのひさしを人差し指で押し上げて、「じゃ、な」と言ってからバイクをスタートさせた。互いに職場山岳会会員ということで、他の同僚以上に同席する場を多く持って来ている。四月中旬にハイキングの計画を組んであり、その詳細を相談してきたのも生田と隆一なのだ。今さら改めて話し合わなくても互いを知りつくしている。
 隆一はコートの襟を立ててから、駅に向かって歩き始めた。

 

8 母の通院

 

 退職して四日後、
「医者へ行くのに、車で送ってって貰えねぇかな」
 母が思いつめたうえで言い出したように、憔悴しきった顔を向けた。隆一にその言葉の意味が判らなかったのは、前日迄母は一人でバスに乗って医院に通っていたからである。他人に促されて通院するというような人ではないから、通院状況や診察内容を尋ねもせずに来た。自分で必要と判断し、医師の診断に従って薬を呑んでいるのが母のはずだった。整形外科、胃腸科、歯科、眼科。
 心配している素振りを見せたり、先走って問い掛けたりすれば機嫌を悪くするから、母の方から言い出すまで知らない振りをする。
「どうしたの」
「バスの乗り降りがきつくてなあ。まごまごしてっと、他の客に怒鳴られねぇかと身のすくむ思いがしてよ」
 怒鳴るのはこれ迄の母であり、怒鳴られたのは隆一だった。
「さっさと歩け。何をまごまごしてんだ」
 幼い隆一の頭を小突き、誰かに強制されでもしているように、小走りに先を急いだのが三十代の母だった。そういう記憶が強烈であったから、母の表情は理解し難かった。
「男が台所なんかやるもんじゃねぇぞ。どこに男にやらせるなんて家があるってんだ」
 結婚して間もなく、台所で遊び半分に妻の手伝いをしていると、母はいきり立って言ったものだった。それ以来隆一は、台所仕事をしなかった。それが尾を引いているが、退職後なのだから家事をして当然という思いで台所に立ったが、背後から母が従来のように罵声をあびせてくるのではないかと恐るおそる母の様子をうかがった。ところが母は、隆一が台所仕事をしていても、掃除や洗濯をしていても、背後から罵声をあびせるというようなことはなかった。これは隆一にとってさわやかな驚きだった。強い一方の人が、自分の思いから三歩も四歩も譲り、自分を押しかくすなどということは有り得ないことだったからである。このように気弱く、母が通院を負担にするようになるとは想像外だった。母の変化を怪しまねばならないという気になったが、車の乗り降りの様子から、(母が老いた)ことを実感せざるを得なかった。母が母でなくなる。

 

 母の長姉であるシズカ伯母が亡くなった知らせは、つかみ所がない気分が浮遊しているような日の夕暮れ時だった。「北の家」の後継ぎ娘の勝子の電話は、口ごもり勝ちで時間ばかりがかかった。
「要するに、警察の鑑識が入ったってこと?」
 余計な問いであることを承知で、隆一は勝子の長くなり勝ちな説明を要約した。警察が入るなどということは、その小さな村の住人にとっては大事件で、普段の尻上がりの声高なやりとりなどできるはずもない。
「三日だって言うのよ、死んでから。伯母さんに持病なんかなかったからね」
 十年に一度、それも葬儀がらみで会うぐらいのつき合いしかない従兄妹は、弁解気味に言葉を続けた。
 通夜の日程を聞き取ってから、その旨母に伝え「吐血していたらしい」とつけ加えた。通夜から告別式には自分が行ってくるからと告げても、母は「そうだなぁ」と言った後、「姉さんも可愛いそうだったなぁ、一人だったから」と嘆息でもするように息を吐いた。祖父母の墓参のついでに、母の希望で伯母の家に寄った帰り道、車の後部席から聞こえて来た言葉と同じ言葉だった。伯母が定年で退職が近くなった頃、隆一に一緒に住みたいと伯母が言い出し、「僕はいいよ」と何も考えずに答えたのだが、伯母が帰ると母は「駄目だぞ、姉さんと一緒に住むなんてもっての外だ。口やかましい人だから、私ゃ御免だぞ」とののしったすえに、「今度姉さんが来たら、一緒には住めねえって、俺は思うって断れ。自分で決めてって言うんだぞ」と続けた。母は自分の言葉を忘れたらしく、独身で子供がいない伯母を哀れんだのだ。
 長身で面長な伯母は、イタリア人書記官のメイドとして働いていたからのことか、村から出て来た人とは思えないあか抜けした人で、姉妹は勿論のこと、「南の家」の従姉妹達の面倒を見て、後から上京して来た人の世話を焼いた。その時、東京で生きて行く心得を押しつけ気味に指導して、母はそれを〝口やかましい〟と受け留めたのではないかと、隆一は解釈した。
 車の運転が苦手になった隆一は翌早朝、上野駅からラビットに乗った。自宅近辺など近場なら支障がないのだが、高速道路を使う遠距離となると、視野が狭くなり、足の甲に冷気を感じ、後背部の首筋が固くなって、百キロの速度が維持できなくなった。気付くと、メーターは五十キロを指していて、背後からクラクションを鳴らされ、追い抜いて行く。パーキングエリアの表示が出ると救われた思いになり、だらしない速度で休憩所にもぐり込む。職場の同僚達に冷やかされるのを承知で話し出すと、意外と同じような症状が出る人がいて、安心もしたが、かといって救いがないことに変わりはない。
 腰掛けながら、バックから「方丈記」を抜き出したのは、習慣の一部に過ぎないのだが、それだけに本に集中できなかった。シズカ伯母の死に様が想像され、それも尋常でない光景が思い浮かんで来る。
 勝子の説明から、シズカ伯母の死の光景を描き上げねばならず、それ以外に制作の仕様がなかった。伯母は病院から帰ったままの姿で、うつ伏せになり、畳の上に血糊を吐き散らしている。それも一部は掌でぬぐい、大部分が吐き散らかしてある。意識があった伯母は、自分の姿をどのように見たか。―そのような想像をめぐらすのも、伯母は日焼けした村の同世代の老女とは違い、あか抜けした肌と衣装に慣れ切った人だからだ。すると当然のように思い浮かんだのは、孤独という文字だった。東京では兄弟、姉妹、従姉弟に頼られ、伯母もその期待に応え、若い時には酔うと軍刀を振り回していた夫とは離婚し、その後は終生一人身で子もなく、死ぬ時は思いがけず看取る人もなしに血を吐き散らして死んだ。その先に線をひいてなぞってみると、当然のように孤独と寂寥の二文字しか連なり出てくることはなかった。
 通夜の席には村人はわずかだったが、わずかなりに声高なやりとりが聴こえた。娘時代伯母が村を出ていて、戻っても十五、六年しか経ってないからやむを得ないが、声高な村人に対して、親族は口数が少なかった。
 通夜の読経が済んで、明日の打ち合わせを済ました僧が帰ってしまうと、親族の間にも緊張の綱が解けたようだった。
「お清めが足んねぇな」
 濁声を放ったのは見知らない男だった。すでに顔が朱に染まっている。従兄弟などの親族を除くと、大半が村の人らしく、知らない人が大部分だ。
「カンジ、いい加減にしな」
 老いた女の声が飛んだ。母親か姉なのかもしれない。壁に寄りかかっていた男は鼻を鳴らして台所の方に顔を向けた。
「カンちゃん、一杯や二杯じゃ足んねえよね」
 盆にお銚子を五、六本ほど載せた勝子が、台所から出てくるところだった。二十人程の弔問客のうち、寿司を食べている十数人の女性を除くと、四、五人の手が銚子に伸びた。立川から来た従兄弟の豊夫婦は、明日も仕事の予定が入っているということで、勝子の長男の車で駅に向かった。豊の三人の弟妹からの香典は豊が預かって来た。円筒型から球型に変わったガスタンクの下に、今も暮らしている孝子姉弟は、孝子が代表して明日の告別式に来ると、到着したばかりの隆一に勝子が告げた。やらねばならないことを背負い込んでいる生者の対応としては、当然なことと隆一は受け止めもするが、(伯母さん、寂しいな)と言葉を添えてみたいという思いもきざしていた。
 町会の世話役として活躍した市太郎伯父のように、若くして亡くなった現役世代の通夜は多くの人に見送られる。生業としてのメイドを続けながら兄弟、姉妹の世話に没頭した人生を送った伯母は、それ以外の人との関わりを持たなかっただけに、最後を見送ってくれる人も限りある人となったと言わねばならない。大部分の人生を送ったメイド時代の人々へは、葬儀の通知などしようがなかったろう。伯母も村に戻り、住居の世話をしてくれた次弟辰五郎叔父に、知らせもしなかったに違いない。そして結論めいた言葉に締め括れば、やはり(伯母さん、寂しいよな)という言葉にするしかなかった。すると、その言葉に引かれるように思いついたのが、成人してこの五十数年に数える程しか来てない中で、機会はありながら、上京する迄に住んでいた一間だけの住まいの姿だった。養父との親子関係は、そこでの寂しい思いから始まった。
 隆一は気持の方でその小屋に惹かれるような気分で、ゆったりと立ち上がった。
「小父さん、どこへ行くの」
 勝子が目聡く隆一の姿に気付いたようだった。
「小父さんじゃないよ。僕等は従兄妹なんだから」
ここ十年程に続いた葬儀の度に繰り返した会話をよみがえらせると、勝子は逡巡する振りを見せてから苦笑した。
「私等には小父さんだよね」
 勝子が付け加えたのもいつものことだ。
「明日は朝から忙しいようだから、桃畑下の姿を見て来ようとおもってね」
「もう、家はないよ」
「私が従いて行ってやるよ」
 勝子と次女の苗子が言ったのが同時だった。
「大丈夫だよ。片道十分もかからないんだから」
「南の家」で所有していた桃畑下の小屋は、街道をはさんで孝子伯母さんの家と向き合う位置にあった。と言うよりも、小屋の住人家族が上京して無人となり、住人家族を代表する男が亡くなって、しばらく年数を重ねてから、懐かしいからと言うわけでもなくて、イタリア大使館職員宅から転住して来たのがシズカ伯母であった。
「北の家」の長女というよりも、代替わりした村の住人にとっては他所者の感が強いはずだ。車で母を送って来た時、シズカ伯母は、「見知った人はほとんどいない村になったものね」と、出生地を母に語っていた。隆一達がわずかの年数を住み暮らした小屋の姿は、シズカ伯母が見ることはなかった。
「今でも杉林は苦手なんかい」
 玄関を出て間もなく、連なっている杉林の辺りにさしかかると、苗子は興味深げに尋ね掛けて来た。
「君たちは中学、高校と通い慣れた光景なんだろうな」
「あのことがトラウマになっているのと違うかい」
「背負われて、『北の家』に行く道は月に照らされて、片側が杉の林の闇の中だったからね、こわかったね。しかも家に着いたら子供は寝てろって大人に言われてね。後からの感想なんだけど、両親の離婚とその後の生計について大人が話し合う場だったらしいんだな。確証はないけど。伯父さん達に尋ねても、記憶にないようなことを言われるし」
 桃畑下に出る迄の時間は他愛なかった。夕闇に沈んでいるとは言え、養父から伝えられた〝寂寥〟は忘れようがなかった。遠く、火の見やぐら近くの近江屋の街灯が、村で唯一の照明であるかのように点燈していた。駄菓子をも扱う店の前には、小学校帰りの子供等が、且つてはたむろしていたものだった。この二十数年、そのような光景はまるで見られず仕舞いだった。しかも村に子供の声が反響するということはなかった。昼間中、からすの一鳴きが、空虚に伝わり返すばかりだった。
「寂しくなる一方だね、人も村も」
「それは勝子姉ちゃんなんかが感じてるんじゃないかな。長女ということで早くから村に残り、跡継ぎになってくれたんだからね。私と小夜はそれぞれに町中に移り、町中に住み慣れたからね」
「都会の孤独死なんてこと珍しくない時代になったから、にぎやかだから寂しくないなんてことも言えないし」
「伯母さんも村に馴染んでいたんだろうけど、結局、孤独死だったよね」
 苗子が身近な死を引き寄せたところで、隆一は夕暮れて行く村をゆっくりと見回した。(あと、何回来られるだろう)という問いがにじみ出して来る。来たからと言って何かが変わる訳ではない。来られなくなっても同じだろう。
 養父と母の三人で住み暮らした小屋の跡には、杉の木が十数本植えてあり、桃畑下への道は消えている。勝子に断わられるまでもなく、「南の家」の伯父さんが亡くなって手入れをする人がいなくなった時からだ。それは時代を要約できる年代になって初めて気を向けられることだ。
 夕闇の蛇行する村の一本道を、車の前照燈が照らして、わずかな明るみをつくりながら移って行く。鳴きやんでみて、今迄蛙が鳴いていたことに気付き、隆一は自分の迂闊さを笑った。
 母の離婚後二、三歳から小学校入学までと小学生時代は毎年夏休みに預けられ、季節に依っては魚取りに明け暮れた村なのだ。蛙の声もその場面に埋め込められていたはずだ。その声を忘れるということは、幼いとは言え、自分が生きたささやかな場を失うに等しい。忘れてはならない光景であるはずだ、隆一はもう一度、身を引くようにして村を眺め、見知らぬ車の通過を待った。

 

9猿面

 

 男は確信を持って、その場に立っているようだった。在職中には隆一が立って電車を待っていた場所だ。退職後は埼玉の里山の手入れに行く日曜日、同人の例会や退職者の会、山岳会の集まりの際に立つ場所だが、それは大方朝早くだった。男が立っている時刻ではない。墓参や○○など、現役時代の出勤時刻と同じ頃は別だ。それだけに、自分が立っている駅のホームに他人に立たれると、非力な自分を振り返らざるを得ない気分にさせられる。かと言って、それを非道として文句を言う訳にもいかず、左右に目を向けてから自分の立つ位置を遠慮気味に判断するしかない。
 その時、自ら「猿面冠者」と自称している男とバス停で会わなくなって久しいことに気付いた。隆一が現役の時には、ほぼ毎日顔を合わせた。郵便外務の勤務時間は大雑把に言って午前八時から午後四時。一般的な会社勤めは九時から五時となっていた頃である。娘達を保育園に迎えに行っていた頃には八時から四時の勤務は具合がよかった。五時の閉園間際に間に合った。
 私鉄の小さな駅の傍らにある、バス停留所まで走るのだが、「猿面冠者」は「今日も一本抜いたみたいだな」と話しかけて来た。すでにアルコールの臭いをまき散らしている。「バス会社に電話しといた方がいいな」とも付け加える。自分で電話を掛けた、という話は皆無だ。正義感はあるが勇気はないところは自分と同じだ、と隆一は分析してみる。だから、同調も反論もしない内に「そりゃ糖尿病なんだから、いつ死ぬかもしれないさ。俺が死んだからって、哀しむ人も困る人もいないさ」と展開されても困惑するということはない。「猿面冠者」の独語であり、会話や対話という訳ではない。
 独語から知った内容は、自称「猿面冠者」がむこ養子で、後継ぎの子供をつくれば家では存在感がなく、仕事も形ばかりの半端仕事で、五十代半ばになってからもどこからも苦情は出ずに、一日は手応えなく終わるというものだった。
 隆一が男の姿を見掛けなくなったのは、勧奨退職を受けた前後で、すでに娘達が中途半端ながらも、自立に向かっていた頃だった。「猿面冠者」を毎日目にしていた訳ではないし、見かけないからと言って心動かされるという訳のものではなかった。ところが、いざ見掛けない日が続くと、男の存在感が思っていたよりも重く感じられた。殊に、男の投槍な口振りに、男の本質がにじんでいるように思われた。男の上辺にとらわれていた自分が、鮮明に浮かび上がったようで、思わず赤面させられた。かと言って、一つ手前のバス停で下車する男の家がどこであるかは不明で、また家を探すというのも大げさだと思い、そのままとしてしまった。男には気の毒だが、これまでの経緯から推測すると、自称「猿面冠者」は死んだということになる。彼もまた、人は死ぬのだということを、それも独りで死ぬ寂しい存在であるということを、隆一に教えてくれた一人だった。

 

 五十九歳の春、文芸同人誌の例会で、機関誌の発行について話し合われた。例会は欠かすことなく続けて来たが、機関誌の方は三号雑誌にも届かない二号のままで、他の同人雑誌活動仲間からは呆れられる様で、その三号も発行はおぼつかない有様だった。同人間で続けられているやり取りの間で、隆一が考えていたことは期限を設けられたら原稿を書き終えられるだろうか、ということだけだった。三十余年も抱え込んだままの原稿をである。三十数年前、「夜の明滅」という題名だけは決めておいたが、それ以降一向に進められないままだ。二次会会場の居酒屋に入って腰を下ろしても、同人仲間に原稿の進捗状況を報告できる状態ではない。だから何とも心苦しいのだが、苦しまぎれに、「来年、父が逝った、と題名は考えたんだけど」と恰好だけをつけた。
「ほう、来年と言うのは、どういう意味なの」
 最年長の大河原が揶揄気味に尋ねた。同人を結成した頃からの仲間の質問は計算済みである。
「今年の次の年以上の意味はないね」
「来年、親父が死んだって言うのに、婉曲に言う必要があるかね」
「僕の思いだね」
「思いを示したい、と言うわけ」
「どこ迄示せるかは、駄作を読んでみて貰ってからのことだけど」
 大河原とのやり取りを切り上げるつもりで応じた言葉尻に、隆一は無意識にこだわっている自分の姿を見たように思った。それは取りも直さず、書き上げられない理由が実は、いつまでも原稿を手元に置いておきたいという思いがあってのことではないか。書き終えれば作品が手元から離れてしまい、それを惜しむ気持ちの方が強いのではないかと、誰に断わるという訳でもなしに言い訳をしてみた。してみると、この三十年前後の時間は何だったのだと無為であったかもしれない時間を振り返らざるを得なかった。
 養父が逝った年齢が六十歳、作者である隆一が来年は六十歳であること、この二つが来年は重なること、たったそれだけのことで「来年、父が逝った」は出来上がる。これを過ぎればこの駄作は永遠に完成しないだろうと隆一は推測する。 
(未完)

 

 

 

補足(三上広昭) 

 

①②は『AZ通信』第26号(2017年6月)掲載

 

③④は『AZ通信』第27号(2017年9月)掲載

 

⑤⑥⑦⑧⑨は未発表原稿です。⑤は原稿用紙に、⑥⑦⑧⑨は横書きで書かれていますから、これから推敲、構成する予定だと思われます。

 

読みやすくするために、掲載済み部分との名前の統一、走り書きの部分、重複する部分を削除し、小タイトルのいくつかは、三上が整理・加筆しました。

 

以上から作者の思いとは異なると思いますが、作者の書きたかったことは伝わると思い、森島朝子さんの了解をえて発表しました。

 

 

 

 

*小説として最後尾に書かれていた以下の文章は重複するので削除しましたが、重要と思われる部分を貼り付けます。(三上)

 

 二十七歳の年に「妹」を寄越し、五十一歳の年に七十八歳になった実父から「会いたい」と、弟を名乗る男から電話があった。さすがに、妹と会った時のような肩ひじ張ったやり取りではなかったが、それでも「母」の存在に引きずられていることに変りはなかった。
 その五年後、弟を名乗る男から「父が亡くなりました」という電話があった。五十歳を過ぎた男にとって、伯父叔母や又従兄弟などの類縁が欠け始めて当然のことで、と言うよりも、父の死はその中のひとつと考えれば、当然来るべき死と言えた。老いることなくして逝った養父の死などは、その最たるものであったかもしれない。
 誰に断わるということもなく、一人で死んで行く孤独を、養父は勝の死を哀しむことで、隆一に死の孤独を伝えてくれた。その点、生父は異母弟妹を使い、自分の存在を主張し、惜しまれつつ死んで行ったと言えまいか。その死は、隆一の死生観からは遠く、馴染みのない死であった。養父が死を迎えた時は、しばらくしてから般若心経を読み、シズカ伯母の死に際しては、その死の形のすさまじさから方丈記を、南千住の伯父の死からしばらくして徒然草を、伯母の死後には法華経と良寛の評伝を三冊。漱石、平家物語などと、まとまりもなく読み散らしたのも、死後の世界にわずかなりとも近付けないかと、はかない願いを持ったからかもしれない。それも仏教がらみの方が近付き易いのではないかと、安易な打算を持ってのことだったと言えよう。
 だが、異母弟を名乗り、「父の死」を伝えてくる「弟」には、隆一の体験では知り得ない真面目さがにじみ出ていた。もしかすると、母を同じくする兄弟として成育していたかもしれない二人を、隆一は想定していた。それだけに、電話だけの挨拶で済ませる気はなくて、短い手紙で最後の手紙をまとめた。

 

 

 

 

がらがらぽん ー インタビュー あぺ・しんぞー「戦後七十年談話」を語る  首藤 滋

東京・Hホテル・あけぼのの間。新聞記者、カメラマン、アシスタントが待つ。さっと扉が開けられ、あぺ首相登場

 

あぺ 戦後70年談話について、ということでしたね。

記者 え、あ、はい。よろしくお願いします。

あぺ あの談話、出す必要があったのでしょうか。1995年(戦後50年)当時の連立政権で山村富市首相が出したのがよく引き合いに

         出て,2005年(戦後60年)には大泉純一郎首相が談話を出している。侵略があったとか、お詫びだとか、そんなこと、もう70

         年もたった今、首相談話など出さなければならないなんて、時代錯誤と思いませんか。2012年の首相就任直後に「あぺ談話

         を出す」と言い、山村・大泉談話なんかを「全体として引継ぐ」と言ったのは、出すんだったら自分の考えを前面に出して、

         個別には自分の談話の特徴を入れたかったからです.

        2006~7年の第一次あぺ内閣の時はそういう圧力もなかったし。あの時は、例の『週刊現代』が私の相続税三億円脱税疑惑を

        報じたんで、ま、あの時は重い腹痛だといって、投げ出したのだけれど。しかし、アレもすでに時効になっていますから、問

        題ありません。

        だけど、2013年12月に首相として念願のアスクニ神社参拝を果たしたとき、中国、韓国から抗議がくるのは分っていたけれ

        ど、アメリカから「ガッカリした」なんてお叱りが来るとは、想定外でした。あれからは中国、韓国との関係は冷え込んでし

        まったわけですが、ま、のど元過ぎればなんとやらで、アメリカの指導をうけつつ、関係修復をはかってきたわけです。アス

        クニ神社が、テンノーの為に死んだ人々を祀る戦争礼賛の神社だとか、戦争で人びとを犠牲にするための慰撫装置だとか、言

        う人がありますが、冷静に考えればそれはそのとおりでしょう。そのどこがいけないんでしょう。

記者 そういうこともあって、アメリカは教育的指導をしてきた、ということですね。「これまでの山村元首相、野河元官房長官

        の謝罪を継承すべきだ」とか。

あぺ 戦後七十年談話をどうするか、考えた結果、そして困った結果、総理の私的諮問機関として、私を翼賛してくれる16人の

      「有識者」をあつめて、昨年の二月に新世紀構想懇談会を設置したわけです。16人のうち歴史に詳しい人は4人しかいない、

       と言われていますが、これで十分でしょう。もともとそんなにまじめに歴史認識を懇談してもらうためのものではないんで、

        私の意向を先取りしてもらえればいいわけです。要するに権力追従が好きなああした学者とかで充分。このなかにY新聞・

        編集局部長とかM新聞・特別編集委員を入れたりしたのはよかった。ガス抜きとしてこれほど効果的なことはありません。

        これは思惑通りでしたね。こうした大手新聞社のボス達と定期的に会食をしてきたかいがあったというものです。

記者 その報告が談話の骨子になった、ということですね。

あぺ そういうことですが、やはりアメリカの意向もあるし、「植民地支配」、「侵略」とか、「お詫び」とか、しっかり入れ

         ましょうという内容だった。いわゆるアリバイづくりというんでしょうか。だから、結果として、というか思惑通り、報

         告はそのまま取捨選択すれば談話になるような内容だったわけです。岡北君はそこのところ、うまくリードしてくれまし

         た。有識者というのは、植民地支配とか侵略とかの主体を隠す書き方がうまいですね。源氏物語以来の伝統です。報告は

         ちょっといいかえればそのまま談話に使えるものでした。筋書通り、期待通りのウソ、いや報告を書いてくれたんです。

記者 「あペ談話の歴史論議は、試験問題をうっかり読み間違えた学生の答案のように見える。日本が旧満州を侵略した理由を

         問われたのに、真珠湾攻撃の理由を答えてしまっている」と評した人がいました。朝鮮や台湾の植民地化も無視している、

         って。

あぺ まったく怪しからん評でした。私は報告書に沿って書いただけなのに。

記者 談話は山村談話・大泉談話とくらべて三倍近い長さになりました。

あぺ それはもちろん、私の考えを入れていくわけですから、意を尽くすために長くなったのは仕方ありません。つまり、私

        の考えるところもみんな入れて、がらがらぽんすればよかったわけです。結果的にわけがわからない、冗長だ、とかい

        う人が多かったですが。まさにそこに狙い目があったわけです。

        友達の『春文』とか『WELL』とか、べたぼめでした。「百点満点だ!」と言ってくれた人もいます。新聞も、「侵

        略」とか「お詫び」の言葉をみて安心した、というか、批判ができなくなったでしょう。世論調査でも同共通信では、

      「評価する」が44.2パーセント、「しない」が37.0パーセント。米国政府は「歓迎する」。中国、韓国も、出るかでな

       いかって心配していた言葉がちゃんと出ていたんで、トーンは下がりっぱなしでした。リベラルも左翼の評論家たちも、

       うじうじ言っていましたが、ワカラナイ、の連発でした。どれを入れるか入れないかではなく、ぜーんぶ入れてアリバ

       イをつくって、そうしてそれをすべて打ち消す内容にすればよい。そのことに気付いた国や人は、あまり見かけられな

        かった。ほぼみんな、ウーン、ワカリマセンとなった。

記者 どこがほめられたということでしょうか。

あぺ 友達がほめたのは、ほぼひとつにまとまります。「日本では戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。

         あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせて

         はなりません」の部分ですね。もうこれで侵略、お詫びはチョン、っていうことですね。「日本会議」は談話の翌日、

         前者を引用して「日本が謝罪の歴史に終止符をうち未来志向に立つことを世界に対して発信したことを高く評価したい」

         と声明を出しました。じつはそのあと、「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正

         面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」と言っ

         ているのですが、これ、歴史の評価の内容はともかく、受け継ぐ・忘れる、完全に真逆のことを言っているんですよ。

         どっちなんだ、と聞かれたら、「全体として」読んでほしい、ということで、これは記者会見でなんども繰り返したわ

          けです。

記者 で、どっちなんですか。

あぺ だから言ってるでしょ、全体としてよんでほしいと。ま、談話をほめる人は、前の部分を強調して納得する。批判的に

         見る人は後ろの部分で納得する、と。これがあぺ談話の妙とでも言いましょうか。

記者 戦後生まれの戦争を体験したことのない人、総理も1954年生まれですから、つまり、責任はない、自分としてはお詫

         びもしない、こういうことですか。

あぺ う、それは全体を読んでもらえばわかります。

記者 「全体として」というのは都合がわるい議論から逃げるためにつかう常套語になっていません?

あぺ 全体として、そんなことはありません。

記者 米国、豪州、欧州などから「善意と支援の手があった」とか、寛大であったひとびとという話がいろいろ出て来まし

         たが。

あぺ あれ、ちょっとくどく言ったのは、裏返しに考えてもらえばいいんですね。つまり、中国、朝鮮半島、台湾とか、戦

         争の時のことをあれこれぐじぐじ言い続けるのはやめてほしい、いい加減にしてくれ、っていうことですね。

記者 従軍慰安婦のこともですか。

あぺ まあ、それもいえますが、むしろ「私たちは、20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけ

         られた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありた

         い。21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。」のくだり

         に注意してほしいです。


記者 「従軍慰安婦」の語がなかったですね。「常に寄り添う」のに、当事者との話し抜きで日韓外務大臣声明を出したのは、

         へんですね。それにしても、女性の人権について「世界をリード」にはおどろきました。男女格差が先進国のなかでは

         ダントツに大きく、差別が激しい日本が「リード」とは。


あぺ ま、言葉のアヤ、とでもいいますかね。年末のアレはアメリカがせかしてきたもんだから。

記者 戦争法制との関連をうかがいたいんですが。

あぺ 安全保障法制といってください。戦争は平和を守るためにやらなければならないものです。戦争イコール平和なんです。

         自衛隊員が死ぬのはいやだ、とか言いますが、甘いです。日本を守ってくれいているアメリカは、多くの兵を亡くして

        いますよ、身障者をたくさん残していますよ。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、シリア内戦介入、

        アフリカ諸国内戦介入、すべて多かれ少なかれ日本のためでもあるでしょう。命を張って守ってくれているアメリカにつ

        きあわないなんて、どうかしていますよ。

         昨年五月の「新日米防衛のための指針」(ガイドライン)で、自衛隊はもう日本防衛ではなく、米軍の一部に入るこ

         とになっています。日米軍が切れ目なく対応するということです。「切れ目なく」、いい用語ですね。アメリカ人は

         いい用語を教えてくれます。そういえば、慰安婦問題で「不可逆的に」これもアメリカが要求した言葉です。日本人じゃ

         思いつかない。

記者 談話のすぐあと、戦争法制を強行採決したわけですが。談話で言ったこととの整合性はどうなるんでしょう。

あぺ 談話でちゃんと最後に「積極的平和主義」といっているでしょ。さっきも言いましたように、平和のためには戦争は不

         可避です。集団的自衛権が問題だなんて、どうかしていますよ。

 

 扉がひらいて、SPと一緒にがす官房長官が入ってくる。

 

がす 総理、こちらにいらしたんですかっ。先ほどより経産新聞の記者がお待ちしていますが。あかつきの間で。

あぺ えっ? 経産新聞のインタビューじゃないの、これ。あかつきの間でしょ、ここ。

記者 はあ、いえ、ここはあけぼのの間です。わたしども、T新聞のものです、山田と申します。(名刺をわたす)たまたま

         他の取材でこちらに。

あぺ げっ? それじゃ、……。君たち、いまのは……。全部いったん取消します。がす君、レコーダー消去させてくれたまえ。

      (記者に)君たち、この内容そのまま報道したら、……特定秘密保護法があるんだから。秘密の定義はこっちがするんだ

        からね、懲役十年、わかっているね。

 

 あぺとSP、扉をあけて退場。がすと記者、顔を見合わせる。

 

(2016年7月『通信・労働者文学』254号に掲載されたものを一部改訂)

 

世界は暗澹たる荒蕪地 ―これは人間の国か、フクシマの明日より― 秋沢 陽吉

一 薬師院仁志『地球温暖化論への挑戦』
 薬師院仁志の『地球温暖化論への挑戦』(2002年)を読んで大いに啓発された。社会学の専門家としてではなく、地球温暖化論に対して素人が抱くだろう疑問を書籍や資料を広く渉猟して考えたものだ。展開するひとつひとつの論理が納得できたし信頼できた。渡辺正、広瀬隆、池田清彦の本よりも深く根源的で出色の完成度で、その探究する姿勢がすばらしい。そして私は「温暖化論は地球規模のマインドコントロール」であるという確信がさらに固まった。
「はじめに」から内容をまとめてみる。現在、多くの人が人為的地球温暖化という人類規模の危機が到来することに不安を覚えている。総理府が1997年に行った世論調査では、地球温暖化が心配だとする回答が82%を超えていた。ブッシュ政権が京都議定書への不支持を2001一年に表明した際に多くの批判が浴びせられ、次のような読者の声が新聞に掲載された。「二酸化炭素の大量排出が続けば、温室効果による気温の上昇が進みます。海面水位上昇による土地の喪失、豪雨や干ばつ、砂漠化の進行、生態系の破壊、熱帯性の感染症の発生など、地球規模の環境破壊が加速します。世界は環境問題で日本が国際的に主導権を発揮することを望んでいます。今こそ日本が世界に貢献できるチャンスではないでしょうか」。ところでこの投稿者およびそれを掲載した編集者は、何を根拠にこのような断定をおこなうのかと薬師院は問う。なぜ二酸化炭素の大量排出によって気温が上がるのか。二酸化炭素の変角振動や伸縮振動について知っての上の断定であろうか。さらに、なぜ二酸化炭素が増加すれば豪雨や干ばつが起こるのか。なぜ砂漠化まで進行するのか。気象学や地球物理学や地質学や天文学や海洋学を厳密に吟味した上で断定しているのか。なぜ断定できるのか、その根拠がわからないのだ。多くの一般読者にとって、なぜ二酸化炭素の人為的排出がそのような危機的事態を招くのか、科学的にはさっぱり理解できないに違いない。にもかかわらず、このような見解が大新聞の紙面を飾っているのだ。この種の見解は単に一般読者の特殊意見ではない。世間の八割以上の者が気象学や気候変動論等に精通しているとはとても考えにくい。多くの人は自分ではさっぱり根拠がわからないことを信じ、心配している。どのような根拠に基づくのか、論理的な整合性はあるのか、事実認定は正確なのかといったことを何ら深慮することなしに、地球温暖化という人類的規模の危機を心配しているわけだ。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によって予言されているではないかという反論があるかもしれない。だが、なぜその予言が正しいと断言できるのか、そのメンバーの誰を信頼しているのか、その信頼の根拠は何なのか、少なくとも圧倒的大多数の一般市民は答えることができないだろう。どこの誰でどのような人物なのか全く知らない人の言う事を信じるのであれば、それこそ盲信にほかならない。IPCCのことをご本尊のごとく持ち出したところで、その予言に対する信頼は根拠無視の信仰の域をほとんど出ていないことになる。われわれの周りでは、新聞、テレビ、雑誌、書物などのメディアが、連日のように地球温暖化問題についての情報を発信しつづけている。温暖化問題に関する情報洪水のごとき状況下で、多くの人々は、科学的根拠も理論もデータもほとんど知らないまま、人為的活動によって地球温暖化が生じるのだといつのまにか思い込むようになったのではないか。本質的な問題はホントかウソか自分でも見当もつかない大問題に関して、自ら熟考することなく勝手にホントだと決めつけ、思い込まされてしまっている事態なのである。これこそマインドコントロールなのだ。
地球温暖化問題は1988年6月23日アメリカ議会上院のエネルギー委員会の公聴会から出発した。アメリカ航空宇宙局ゴダード宇宙研究所のジェームズ・ハンセン博士が「最近の異常気象、とりわけ暑い気象が地球の温暖化と関係していることは99パーセントの確率で正しい。この地球温暖化により、1988年1月から5月の気温は過去130年間で最高を示した」。人類規模の環境危機として誕生したのだ。この発言は非常に大きな衝撃をもたらした。ハンセン氏が示したのは伝統的な意味での科学的証拠ではなかった。「われわれのコンピュータによる気象シミュレーションによれば、温室効果は、夏の熱波のような異常気象を起こし始めるのに十分なほど大きくなっている」と述べた。通常の自然科学観に立つならば、このような予言は単なる仮説として取り扱われる。だが、技術が向上しコンピューター・シミュレーションの予言能力が向上すれば、観察しなくても、実験や実地検証をしなくても、自然界の姿はコンピュータが自動的に啓示してくれるというわけだ。「科学的証拠が出そろってから行動したのでは遅すぎる」という認識はこのような立場に基づいている。
そして「地球温暖化論の理論的問題点」という章をこの本の大部分の頁を使って、伝統的科学的見地からの疑問を提示している。一一の章をたどった私の結論は、「コンピュータ的神託は、怪しげなマインドコントロール」というものであった。
「社会問題としての地球温暖化問題」から重要な指摘をあげてみよう。ハンセン氏の1988年6月の99%証言が引き金となって地球温暖化問題が国際政治の新たな関心事として注目を浴びた。同年11月には国連環境計画と世界気象機関の共催でIPCCが設置された。さらに、同年12月国連決議『人類の現在および将来の世代のための地球気候の保護』が採択され、このなかでIPCCを国連が支援する正式の活動として認知した。その後、1992年の地球サミットにおいて「気候変動に関する国際連合枠組み条約」が調印された。私にはいかにも手筈を整えていたかのように、誰かがあたかも仕掛けたかのように順当に過ぎる動きに見える。
IPCC第二次報告書を刊行する際に、わざわざ「世界の第一線の科学者による最新の報告」と大仰な副題を付している。それにしても、IPCCにはなぜそれほどの権威と正当性があるのだろうか。少なくとも多くの一般市民にとって、突如として有名になったIPCCなる存在の権威と正当性の源泉が見えない。IPCCの仕事に参加したとされる2500人の科学者の名前を一人として暗記してはいないだろうし、その名前を知っていてもその人物の業績に関する専門知識はないだろう。にもかかわらず、IPCCの見解は広く一般に受け入れられている。この事態は人々が自分では何かよくわからない対象を、真理を垂れる権威として信じ込まされている状況だ。正しいかどうか考えもせずにそれを権威や真理のごとく信じ込む態度なのである。
そのような状況の下で、国家の政策が決定され、国際世論が形成されている。何だかよく分からない権威から真理が啓示され、いつの間にか既成事実が積み重なっている。国策的なレベルでは、原子力発電の推進、堤防や防波堤の建設、炭素税の大事業が検討されている。
もし温暖化対策をしなければ、自分たちの子や孫の将来を見殺しにするかもしれませんよという倫理的問いかけは、コンピュータ予想のシナリオを示され、宙ぶらりんの不安にさらされていることを意味する。コンピュータの予想によると人類の将来にとって破壊的な危機が発生する可能性がありますよ、今すぐ対策を立てなければどうなるかわかりませんよと、脅迫されているのだ。静かだが、逃れ難い抑止力が働いている。
さらに温暖化対策のためといわれれば、堤防の大建設や新税の徴収や原子力推進に対しても、正面から異議を唱えることが難しくなる。抑止力が国家レベルで作用すると、このような事態になる。
 薬師院は人為的温暖化論者に悪意や支配欲があるわけではない、というが私は明確な意図と狙いがあると考える。そうでなければ世界中がこれほど温暖化対策に向かって動くはずはない。実は根拠なき信仰が広がったにすぎないのだ。
二 長周新聞「脱炭素巡り米欧中の争奪激化」21年6月14日
 私はこの記事を見て心底驚いた。前章のよう地球温暖化論の真っ当な批判つまり真実などそっちのけで脱炭素の方向に世界各国が鎬を削る様があからさまに描かれていたからだ。
 ⅠEA(国際エネルギー機関)が5月中旬に「産業革命以降の平均気温の上昇を1・5度までに抑える」「そのために2050年までにカーボン・ニュートラル(温暖化ガスの排出ゼロ)を実現する」としたパリ協定を実現するためのレポートを発表し、各国政府、エネルギー企業に対して「新規の石炭・石油開発を今年から停止すべきだ」と勧告した。これまでⅠEAは歴史的に「石油価格安定のために新規採掘を増やすべきだ」と提言してきており、180度の転換だ。「温暖化防止」「気候変動対策」「カーボン・ゼロ実現」「脱炭素」などが叫ばれる中での動きなのだ。
 ⅠEAは第一次オイルショック直後の1974年、OPEC(石油輸出機構)に対抗するため米欧主導で設立された。当時のⅠEAはいかにして世界の石油供給を十分かつ円滑に増やしていくかを責務にしていた。そのⅠEAが新規の石炭・石油開発の停止を勧告した。設立からほぼ半世紀、ⅠEAはカーボン・ゼロへと大きな路線転換をはかっている。
 ⅠEAの勧告によれば、石油や石炭のなどの化石燃料の消費を劇的に減らす研究投資、インフラ整備に2030年までに毎年5兆ドル(約550兆円)という投資の増加を必要としている。電力におけるクリーンエネルギーへの100%転換、自動車のEV化推進などへの巨額の投資だ。
 第二次世界大戦後、石油は国家戦略や国際政治と密接につながった「戦略商品」となった。現状では先進国のなかでアメリカだけが石油を自給でき、他の国は石油を輸入しないと経済活動を維持できない。石油の供給と輸送、代金の決済など石油に関するあらゆる部分をアメリカは強大な軍事力を背景にして押さえており、これがアメリカが世界を支配する力の源泉になってきた。
 各国はやむをえずアメリカの石油支配を受け入れてきたが、欧州や中国はこうしたアメリカの支配を苦々しく思ってきた。もし自国で消費するエネルギーの大半を、他国に依存しない再生可能エネルギーでカバーできれば、それは完全に自国産のエネルギーということになる。自前のエネルギー源の確保は安全保障の根幹ともいえる。この間のエネルギー転換の議論をリードしてきたのはドイツや北欧、イギリスなどの欧州諸国だ。欧州諸国は石油を使ったアメリカの世界支配に抵抗を続けてきている。エネルギー転換は欧州諸国にとってはアメリカとともにロシアなどに依存してきたエネルギー安全保障を抜本的に改善することになる。また、風力発電や国際送電、セクターカップリングといった次世代の産業分野で優位に立つことも重要な目的だ。
 中国は当初は脱炭素には消極的だった。中国は世界最大の工業国であり、大量の石油・石炭を燃料として使っている、世界最大の化石燃料輸入国だ。米国の石油利権による世界支配を崩したいとは思っているが、現実問題として脱炭素には積極的になれないという事情があった。ところが、昨年中国は2060年までのCO2排出ゼロを宣言した。エネルギー自立を確立するため、風力発電と太陽光発電の導入量で圧倒的な世界一を誇る。これらの国内市場をテコに関連メーカーを育成し、さらに電気自動車市場でも世界最大である。中国は日米欧が牛耳ってきた戦略産業において主導権を握り、アメリカと覇権を争おうとしている。
 米国はバイデン政府の登場で2050年までのカーボン・ニュートラルを掲げ、パリ協定復帰を宣言し、本格的な脱炭素戦略を打ち出した。
 脱炭素が進むと不利だと考えられていた中国やアメリカが方針を大転換した理由は、脱炭素社会が進む中で、その枠組みを構築するリーダーになれなかった国は覇権を失う可能性が高いからだ。現代社会において戦争とエネルギーは表裏一体の関係にあり、エネルギーを支配することが世界を支配することにつながる。
 以上から私は温暖化防止やカーボンゼロという科学的根拠がありもしない砂上の楼閣がどんどん築かれるのは、つまりは膨大な投資と収益がある産業の隆盛を目的とするからだと思う。各国が覇権を争奪する動きが激しくなっている。
 何のことはない地球温暖化対策は石油に変わり再生可能エネルギーという商売、ビジネスに直結するからこそ、隆盛を誇っているのだ。殺伐としてしまったが、考えてみれば戦争もまた大儲けができる商売であった。紛争や戦争は国家間の対立から生じたものではなく、大量に兵器を消費する人殺しのビジネスだった。また、これらの大国は原子力発電を主要なエネルギーとして利用した。ウランの採掘から設置地域の人々や労働者の被曝被害の上に成り立つものだった。そしてフクシマの惨状。原発というビジネスによって、ごく一部の企業家が人々の生命と暮らしを犠牲にして大儲けをした。地球温暖化問題の帰結は戦争と原発同様、国家が一部の者の所有物であって、世界は連中の金儲けのためにしか動いてはいない事実を明確に示したのだ。
三 長周新聞「再エネの「不都合な真実」を暴く」21年1月18日
地球温暖化が本当に到来するなら、世界がカーボンニュートラルの政策を進めるのは誠に結構なことだ。ところが、一、二章で見たようにいずれも嘘偽りのイカサマだらけだと私は思う。その上再生可能エネルギーの現実が虚偽づくめで環境と人間を破壊するものだった。
 記事は環境保護を騙るビジネスの姿を暴いた映画「プラネット・オ・ザ・ヒューマンズ(人類の惑星)」を記者座談会という形式で紹介したものだ。マイケル・ムーアが総指揮しジェフ・ギブスが監督したドキュメンタリー映画だ。ジェフ・ギブスは環境保護主義者で社会が化石燃料に頼っているのに疑問を持ち、クリーン・エネルギーの運動に身を投じてきた。再エネの現場を取材する中で何かおかしいと気づいていく。
 バーモント州での環境保護団体の「太陽祭」。照明もバンド演奏も100%太陽エネルギーとうたったが、そこに雨が降り出した。舞台裏に回るとバックアップのための電力会社の電気を引き込んでいた。
 ミシガン州ではゼネラルモーターズがCO2を排出しない電気自動車シボレーボルトを制作した。その発表会。電気自動車のバッテリーを充電している電気はどこからという質問に対し、「残念ながらほとんどが石炭。太陽光や風力ではない。夜に充電できると宣伝しているが夜は太陽はありません」と認めた。
 ミシガン州北部には森林を伐採してつくった風力発電所がある。同州最大で高さ150メートルの巨大風車にはコンクリートが521トン、銅が140トンも使われている。巨大なブレードはグラスファイバーとバルサでできており、重さは16トン。化石燃料を使って作られたこの巨大な機械がわずか10年で捨てられ、風車群の残骸となる。
 太陽光発電も同じだ。再エネ事業者は「ソーラーパネルの主成分はシリコンつまり砂です」と宣伝しているが、砂は不純物が多すぎて使えず、高純度の石英が必要だ。そして鉱石から石英を取り出すためには、石炭を使って大型の電気オーブンで1800度まで熱しなければならない。するとシリコンと大量のCO2が得られる。
 カリフォルニア州の砂漠に世界最大の太陽光プラント(37万7000キロワット)が完成した。しかしこの太陽光発電所は毎朝およそ数時間も天然ガスを燃焼させて起動する。施設全体はコンクリートからスチールミラーまで化石燃料を使って作られている。「太陽は再生可能だが太陽光発電所は再生可能ではない」「化石燃料をこれらの幻想を作るために使うのではなく、燃料として燃やした方がよかったのに」とは研究者の意見だ。
 米国で最初に建設された太陽子発電所に行くと大量の壊れたソーラーパネルがそのまま放置され墓場のようになっていた。耐用年数は10年。
 こうした再エネ・ビジネスがオバマ大統領が登場してグリーン・ニューディールという景気刺激策を打ち出したことで一気に花開いた。オバマはクリーン・エネルギーのために1000億ドルを含む一兆ドルの環境保護予算を組んだ。このときオバマは環境活動家を抜擢し、数万基の風力発電所を設置しその後次々と投資家があらわれた。
 電気自動車テスラの創設者は自身のギガファクトリーは太陽光と風力と地熱発電で100%まかなっているという。しかし、電気自動車、風力タービン、ソーラーパネルをつくるには、リチウムやグラファイトなどの稀少金属が不可欠だ。それはアフリカなどの鉱山から採掘されるが、採掘は子供たちを含む現地の人々の奴隷的な労働で成り立っている。希少金属を得るために熱帯雨林を根こそぎ伐採し、山を爆破し、地中深く掘り進む多国籍企業。しかも希少金属を抽出する時ウランをまき散らしている。大量生産・大量消費という資本主義の犯罪だ。
 バイオマスもそうだった。バーモント州のバイオマス発電所では地域の森林を大量に伐採してそれを化石燃料で燃やしている。伐採、運搬するには化石燃料が大量に必要で、実際には年間40万トン以上のCO2を排出している。
 記者は語る。再生可能エネルギー・ビジネスのインチキが強く印象に残ったと。そもそも風力にしろ太陽光にしろバイオマスにしろ、化石燃料を使わなければつくることも稼働することもできない。そうした再エネをつくればつくるほど、地球の裏側ではアフリカの熱帯雨林やアマゾンの森林をますます破壊し、そこで暮らす人々を生きていけなくする。なにが「再生可能」だ、なにが「地球にやさしい」だ。
 ウォール街と環境保護運動のリーダーの癒着、一体化をも暴いた。環境保護運動といえば、革新側とみられがちだが、その中に権力側と裏で手を握り合っている者がいる。再エネがクリーンであり進歩のようにいいつつ、もっと大事な問題から目をそらせ、それで利益を得ている。
 脱炭素革命というけれど、実体は風力や太陽光やバイオマスの発電所を増やすことであり、石油の替わりに電気やバイオ燃料で車を動かすことだ。環境保護主義と資本主義は融合した。資本主義による環境運動のハイジャックなのだ。 結局、再エネを推進する側の目的は、CO2を減らして地球を救うことではなく、再エネビジネスでもうけることだ。大量生産・大量消費・大量廃棄というシステムを転換することではなく、もっとやりたい放題にすることだ。
  菅政府は「2050年度までに温暖化ガス排出量ゼロ」「脱炭素」などを掲げて、さらなる原発再稼働、老朽原発の運転延長など原発を最大限に活用する方向に突き進んでいる。(長周新聞21年9月17日)
 四 世界は暗澹たる荒蕪地
  今頃わかったのかと言われそうだが、私は地球温暖化問題を追ううちにやっと理解できたのだ。世界は暗澹たる荒蕪地だと。
地球温暖化の原因が二酸化炭素だとは科学的に全く証明されていないのに、たった30年のうちに世界の常識や真理になった。資本を持つ一握りが世界の人々に刷りこもうと、意図的に計画的に情報のシャワーを浴びせ続ければ常識と真理は完成する。洗脳あるいはマインドコントロールなのに、この常識を自分のものだと思い込む人々に異なる「真理」を理解させるのは至難のことだ。大本営発表と同じだ。
地球温暖化に疑いを抱かずに信じるのは愚かだからではないか。それ以外の情報がないのだからやむを得ないのかもしれない。しかし知識も教養もある人が信じるのは、根本的にその人の思考のどこかに欠陥があるのかもしれない。かの戦争に煽り立てられた知識人と同じではないか。戦争であれ原発であれ地球温暖化であれコロナであれ、ごく一部の支配者が世界を牛耳って人間の命と暮らしを犠牲にして金儲けに専念するのこそが真実だ。連中は人の命など何とも思わず金儲けという欲動のままに行動し、国家をも配下にする。権力も資本もない人間は世界を変えることなど到底不可能で全く無力だ。世界は暗澹たる荒蕪地である。けれども、腐った世界と国家を認めない人間にとっては世界も国家も否定されてないも同然で、実は敵の方が無力なのだ。そうは考えられないだろうか。

 

評論 庶民の尊厳と希望――高琢基「緩やかな禍」を読む・黄 英治

 『労働者文学91』掲載「緩やかな禍」感想

庶民の尊厳と希望―高琢基「緩やかな禍」を読む

           黄 英治 (ファン ヨンチ)

 

 ■「高琢基」=方政雄氏のこと
 『労働者文学 91』(労文)を受け取り、第三十四回《労働者文学賞二〇二二》の小説部門入選者に、「高琢基」という作者名を見つけたとき、胸のどこかが、あっと叫んだ。私が労働者文学会の会員になったのは、「記憶の火葬」で労働者文学賞二〇〇四の小説部門(選者:小沢信男、木下昌明、清水克二、向坂唯雄の各氏)の入選をいただいことを契機としているから、もう(とは、いまもご健在、ご健筆の創立メンバーの先輩方には傲慢な副詞となるが)十八年になる。この短くもない歳月の間に、私以外の在日朝鮮人の書き手が『労働者文学』に登場することはなかったからである。それは驚きと、喜びの叫びだった。
さっそく受賞作「緩やかな禍」を一読する。登場人物に、在日朝鮮人だと明示された者はいない。しかし、在日朝鮮人集住地域のネムセ(臭い)は、恐らくは作者の意図的なたくらみとして、かなり明瞭に作品のなかに湧き、漂っている(後述)。とはいえ、作者が「こう・たくき」氏である可能性もなくはない。「고탁기(コ・タッキ)」氏ではく、日本人作家の「こう・たくき」氏。私は作品を書き上げて、署名するとき「黄英治」と表記して「ファン・ヨンチ」とルビをふる。私が황영치という在日朝鮮人であることを明示したいからだ。しかし、「高琢基」氏はそのように読みを指定していない。これも作家の意識的な操作であるに違いない、とも(深読みすぎるかも知れないが)考えた。
 そこで、『労文』編集長の村松孝明さんにメールで、「高琢基」氏が在日なのか、年齢はどれくらいなのか問い合わせた。村松さんの返信は、応募規定に国籍などの規定はないので正確なことはわからないが、名前からすれば在日であろう。年齢は七十代、とのことだった。アスベスト禍というテーマと作中時間が半世紀以上にも及ぶことから、若い作家ではないだろうと推測していたが、私(六十四歳)よりも年長だというのは、少なくとも私よりも年少の「若い」地道な在日作家の登場を待っている者としては、少し「残念」な事実だった。
 とはいえ、「受賞のことばで」で、「被害を受ける者は常に『弱者』の側です。その視点から引き続き小説、精進できれば」と語る、確かな問題意識と技量を備えた作家への関心は、ますます強く湧きあがってくる。
 そこで「高琢基」氏をネット検索すると、大阪文学学校のHPから、この作家の情報をかなり詳しく入手することができた。そこには「第三十四回労働者文学賞〈小説部門〉を受賞!」という記事もアップされてさえいた。
 「高琢基」氏の本名は方政雄(パン・ヂョンウン)で、やはり在日韓国人二世だった。方政雄氏は大学を卒業後、電気工事関係の仕事をしているとき、乞われて一九八五年から解放教育の実践で有名な兵庫県立湊川高校(定時制)の朝鮮語教員となり、三十一年間教壇に立つ。外国籍のために「任期のない常勤講師」として、日本社会の差別の「論理」である「当然の法理」によって、管理職に就けないまま定年を迎える。ちなみに、湊川高校(定時制)の朝鮮語は一九七三年、公立高校として全国で初めて必修科目として開講された。詩人の金時鐘(キム・シヂョン)氏が、同校で最初の朝鮮語教員に採用され八八年三月まで奉職したことは、有名な話だろう。それに関連する記述を探して本棚をあさっていると、なんと方政雄氏のエッセイ「湊川高校の朝鮮語と金時鐘――金時鐘先生との出会い――」が掲載された『論潮六号 特集・金時鐘』(論潮の会、二〇一四年)が見つかった。読んだ証のマーカーが紙面に引かれているが、内容はまったく失念していた。それによると、方氏と金氏は八五年から三年間、同僚として机を並べていたとのことである。方氏が定年後、文学の実作者へと進むその糸口は、金時鐘詩人との出会いにまで遡ることができるのではないか。
 方氏は定年後、大阪文学学校の門をたたき、小説の研鑽をつみながら(現在は休学中とのこと)作品をものにして発表、二〇一八年には「ボクらの叛乱」で部落解放文学賞を受賞。今年二月には「方政雄」名義で、中短編小説四編を収めた『白い木槿(むくげ)』(新幹社)を上梓している。それを知って私は、すぐに本書を購入した。落掌した小説集にはアスベスト禍がテーマの「光る細い棘」が収められていた。「緩やかな禍」は、「光る細い棘」を改題・改作した作品であることがわかった。「あとがき」で方氏は、在日コリアンとして日本で生まれ育つことで、「くすぶった思い」を持ち続けていることが創作の原動力であること、「在日コリアンとしての思いを、素朴な庶民の視点から喜び悲しみを淡々と描きたい」との希望を表明している。
 こうした経歴と実績を考えるなら、「緩やかな禍」のテーマ、プロットの巧みさ、文章と表現の確かさ、的確な描写によるイメージの広がりなどは、当然のことと思える。
 さて、長い長い枕を振ったものだ、と恐縮しつつ、ようやく以下に、「緩やかな禍」の作品批評に記すことにする。

 

■「緩やかな禍」について
 作品のテーマはアスベスト(石綿)禍である。アスベストとは、太さが髪の毛の数千分の一程度のきわめて細い繊維状の鉱物で、飛散したものを吸い込むと、中皮腫や肺がんを発症させる恐れがある。物語のなかで、主人公の速水吉男と高校時代の夏休み、久保田鉄工で一緒にアルバイトをして中皮腫で亡くなった野村の妹が「発症するまでには二十年から六十年ほどの潜伏期間があるといわれています。特にあの工場は毒性の強い青石綿でパイプを製造していたそうです」と伝える。吉男は「緩やかな禍」が身近に迫っていることを初めて知る。五十代半ばの吉男はまだ潜伏期間のなかにいる。
 久保田の工場のいたるところに綿毛のようなアスベストの埃が降り積もっている。野球をやっていた吉男と野村は、その「綿毛を搔き集め、丸めてボールを作る」。投げる吉男、竹ぼうきをバットに構える野村。ボールは固まらず、思い切りスイングした野村の竹ぼうきの風圧で「綿毛は再び空中に舞い上がり(中略)、窓から射す光を受けてきらきらと輝き、ゆっくりと散り落ちた」という場面は、「緩やかな禍」とはなにかを鮮やかに表現している。
 吉男にバイトを紹介してくれた新井のおっちゃんの息子の健一は、野球部のエース。吉男にとっては憧れの先輩。草野球でもエースだった健一も、アスベスト禍で急激の病勢を悪化させ、亡くなった。そして病魔は吉男にも襲いかかってきた。アスベスト禍は久保田でのアルバイトだけでなく、高校卒業後についた電気工事の仕事は四十年を超え、「天井裏の電気工事の仕事」「屋根裏を苔のようにまぶした『吹付石綿』の中を電線をもち、這いずり回った」「それを吸って妻と子どもを養い、飯を食ってきた」果ての発症だった。
 吉男の検査、診断、闘病、妻の「神頼み」の記述は、読者の心へとひたひたと押し寄せてくる。アスベスト禍とはどんなものなのか、その苦しみは他人のものではなく、やがて自分のものかも知れない、との思いを呼び起こす。治療の効果が思わしくない。新しい抗がん剤治療について担当医が話し始める。
 「みんなの分まで生きてやる。吉男は目を見開き顔を上げ、先生の言葉をさえぎって、お願いします、ときっぱり言った」
 病魔と闘うことのさまざまな、大切な意味が、この末尾の一節に込められている。始める力を信じる、吉男の、現実の奈落の底で抵抗の光を灯し、この〈いま〉ではない、別の〈いま〉を求める、庶民の尊厳と希望の表明である。
 高琢基=方政雄氏も、吉男と同様に高校時代夏休に三年間、久保田でアスベスト使用の水道管(石綿管)に社名の「マーク刷」をし、倉庫の掃除に従事した。また、三歳年上の兄も久保田の分工場の非正規職として石綿管の旋盤加工に従事したという。その友人が、そして兄が、石綿関連疾患で死亡した。幸いなことにいまのところ、方政雄氏の体調に変化はないとのことだ(以上、毎日新聞四月二十二日付、『白い木槿』紹介記事より)。
 蛇足をひとつ。前節の書いた「在日朝鮮人集住地域のネムセ(臭い)」について。まずは、舞台が在日朝鮮人の集住地域である尼崎であるということ。そして冒頭から「新井のおっちゃん」である。新井姓は、植民地支配に由来する創氏改名で朴(パク)氏の通名に多い。この「(尼崎の)工業高校」は尼崎工業高校で、尼工は荒れる学校であり、湊川とならんで兵庫の解放教育の拠点校。「栄養満点のホルモン焼き」は説明不要だろう。そして、「新井のおっちゃん」は臨時工であり、健一は下請けの非正規職で「昇給も退職金もない」出来高制の、日雇いに近い職位であることは、当時の在日朝鮮人の不安的な雇用状況を表わしている。また「市民祭りの実行委員会の係」とは、兵庫で行われている「民族まつり」や、朝鮮語で広場を意味する「マダン祭り」が想起される。つまり、吉男、新井のおっちゃん、健一は在日朝鮮人であるとして読んでも、誤読ではないということだ。
 作品の署名が「高琢基」でありながらも、(あえて)登場人物に在日朝鮮人と明示しなかったのは、アスベスト禍に、在日朝鮮人の問題を重ねると、短編では収拾できないという作家の判断があったかも知れない、と考えた。だが、そうかな、という思いもわく。
 先に触れたように、本作は小説集所収の「光る細い棘」の改題・改作である。両作は、登場人物の名前も、設定もまったく同じで、文章も変わらないが、本作では、「棘」にある「新井のおっちゃん」家が朝鮮人家族であることを示すエピソードが削除されている。同時に、吉男は日本人であることもわかるように書かれている。また、吉男と野村がバイトで稼いだ金で、いままで食べていた野菜焼きから昇格して豚玉を食べたお好み焼き屋の「栄屋」のエピソードも消え、「栄屋」のおばちゃんが吉男に、野村の死を知らせるプロットが変更されている。そして、吉男と野村の久保田での石綿管への「マーク刷」の仕事のいきいきとした描写もなくなっている。
 「光る細い棘」を読み終えたとき、「緩やかな禍」への改題・改作が必要だったのか、と率直に思った。ホルモン焼きとキムチをともに食べる、吉男と「新井のおっちゃん」家族との団らん風景の描写は、両民族が隣同士で仲良く暮らす姿の象徴だし、アスベスト禍は民族に関係なく地域住民に襲いかかるものであるという事実を示すことでもある。
 私は「光る細い棘」こそが、〈庶民の尊厳と希望の表明〉の決定稿であったと確信する。

 

書評「郵政労使に問う―職場復帰への戦いの軌跡」・土田宏樹


 池田実著「郵政労使に問うー職場復帰への戦いの軌跡」 

              すいれん舎 2022年8月25日発行

 郵政4.28処分というものをご存じだろうか。かつての全逓労組(現在のJP労組)が1978年から翌年初めにかけて取り組んだ越年闘争に対してかけられた大量処分を指す。懲戒免職となった58名のうち最後まで闘いを続けた7名は裁判に勝利して2007年に職場復帰を果たした。本書の著者である池田実さんはその7名のうちの一人だ。これは副題にあるとおり職場復帰への戦いの軌跡であるとともに、一労働者の「自分史」でもある。

 郵政反マル生越年闘争と4.28処分

 郵政省はかつて長年にわたって全逓を敵視し、第二組合である全郵政を人事で優遇してきた。全逓組合員は昇任でも郷里へのUターン転勤でも全郵政組合員より後回しにされる。「生産性」を損なう全逓労組を冷遇して潰すのが生産性向上につながるというわけだ。そこで全逓はこれを郵政版の<生産性向上運動>すなわちマル生と呼んだ。生産性の「生」の字を〇で囲んで略称とすることが国鉄などでも行われたからである。その是正を要求して1978年の暮れ、業務のスピードを大幅に落とす業務規制闘争に突入する。

 国鉄なら順法闘争だが郵便ではブツ溜めと呼ばれる業務規制闘争は、公企体労働者は争議権が無く公然たるストを打ちにくかった分かえって以前から行われてきた。しかも、この年の春闘において全逓は官公労統一ストから直前になって脱落したことで組織内外から批判を浴びた。その反動もあって全逓本部は退くに退けなかったし、なにより長年の郵政当局の全逓敵視に職場の怒りが高まっていた。かくて年末闘争は越年し、年賀状配達は大混乱に陥った。

 三が日を過ぎ成人の日を過ぎても、配達されない年賀状が大量に残る。結局は何の成果もないまま1月25日に開催された第72回臨時中央委員会で業務規制闘争の中止を決定するのだが。

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    郵政省は争議の実行者であった一般組合員の大量処分で応じた。1979年4月28日である。だから4.28処分と呼ぶ。懲戒免職58人、停職286人、減給1457人、戒告1425人という前代未聞の規模。全国闘争として闘われたのに処分は東京に集中し、懲戒免職58名のうち55名が東京だった。そのうち支部執行委員以上は4名のみ,分会長,副分会長5名,地区本部青年部委員1名、支部青年部委員14名と青年層が狙われた。一番若い被免職者はまだ20歳だった。池田さんは処分当時26歳で、それがだいたい平均の年齢である。処分を取り消し・無効とした2004年の東京高裁判決文の表現を借りれば「本件闘争の実施についての全逓の意思決定に参画したといい難い」人たちばかりであった。そこで高裁判決は
「・・一部に全逓の末端組織である支部の執行委員らがいるものの,大半が全逓組合員というにとどまり,全逓の役員等,本件闘争の実施の意思決定に参画したと認めうる者はいない」。

「本件闘争を理由として控訴人らに対してされた懲戒免職は,全逓の意思決定に従って違法な争議行為を実施した組合員に課されうる懲戒処分の選択及びその限界の決定につき,考慮すべき事実を考慮せず,社会通念に照らして著しく不合理な結果をもたらし,裁量権の行使を誤った重大明白な瑕疵があり,取消しを免れず,また,無効というべきである」。

 と明確に断じたのである。争議行為の意思決定に参画した者ではなく、その決定に従った者ばかりを処分した郵政当局、それを追認した一審東京地裁判決(2002年)の異常性を糺した。

この判決文を書いた江見弘武裁判長はかつて1984年、民営化される前の国鉄法務課に出向し、「分割・民営化によって新会社をつくり、いったん国鉄から退社して新会社に応募させ、採用させる。応募しなければ、自動的に国鉄を継承する国鉄清算事業団送りになるという方式をとれば、合法的に新会社に振り分けられる」という方法を国鉄経営陣に助言した人物である。後日、毎日新聞インタビューに「会社更生の一般論を言っただけ。人切りの制度を考えたと言われるのは名誉ではないが、不名誉でもない」と答えている(166ページ)。

 その同じ人が、20年後には郵政における首切りをひっくり返す判決を書いた。かつての公企体が、国鉄も郵政も次々民営化され、あるいはその方向に向かい、国家公務員法によって争議行為が禁止される労働者の範囲が狭まってくる中での今日的な判決とも言えるのだろうか。世の中は、いや人間とは、まことに一筋縄ではいかない。

 2007年2月13日、最高裁第三小法廷は高裁判決を支持し、郵政公社の上告を不受理とする決定を下した。郵政省は2003年に郵政公社に変わっており、そして2007年10月からは民営企業としての日本郵政グループが発足するのである。労組のほうもそれに足並を揃えるように全逓は2004年にJPUと名称変更、さらにかつては第二組合と蔑んでいた全郵政とついに合同して2007年にはJP労組となった。
 池田さんはその2007年の3月1日、民営化間近の古巣・赤羽郵便局に復帰する。

 時代の子

 本書の目次はこうなっている。

第1章 郵便局に入って

第2章 郵政省との攻防

第3章 越年闘争突入

第4章 4・28処分発令

第5章 郵政再受験の罠

第6章 自立の闘い

第7章 一審の敗北

第8章 逆転勝訴

第9章 28年ぶりの職場

年表 4・28反処分闘争のあゆみ(1975年~2013年)

 1952年生まれの池田実さんが地元である赤羽郵便局の集配課に臨時補充員として採用が決まったのは1970年11月25日で、面接を終えて帰宅したら三島由紀夫が陸上自衛隊市谷駐屯地で自決したニュースがTVから流れていた。私は当時高校一年生で、そのニュースを教室で知った記憶がある。私は池田さんより学年で2年下だから、池田さんはそのとき何もなければまだ高校三年生のはずなのに、その一年前の1969年11月、彼は通っていた都立高校で約30人の仲間と共に教職員室をバリケード封鎖していた。約一か月立てこもり、機動隊突入の直前になって教師たちが3人残っていた生徒の手足を掴んで無理やり裏口から逃がした。教え子を警察に突き出すような教師でなくてよかったが、そのあと池田さんは無期停学という処分の撤回を求めて定期試験中の教室に入り、答案用紙を破り捨てる。今度は少年鑑別所に送られ、高校は中途退学になった。

 鑑別所を体験したばかりの少年をよく郵政省が採用したと現在の感覚では思うけれど、臨時補充員は各郵便局が独自に採用するし、今と違って二年後には自動的に郵政事務官(当時)になった。

 当時はベトナム反戦運動がひろがり、大学では全共闘運動が燃え上がり高校にも飛び火した。池田さんもそんな時代の子であったのだろう。高校時代の池田さんのエピソードは中公新書『高校紛争
1969-70』(小林哲夫著、2012年刊)にも登場する。

 面接の翌日から働き出した。働いただけではない。赤羽郵便局には当時さまざまなサークルがあり、バンドに誘われ、写真部と山岳部に参加した。赤羽といえば酒飲みの“聖地”だ。当時もそうであろう。超勤はほとんど無かったから勤務の後ゆっくり風呂に浸かり、「近くの酒屋さんで立ち飲みして時間調整(安い乾き物で)、薄暮になるのを見計らい歓楽街に繰り出す」(11ページ)こともあった。このあたり、5年遅れて1975年秋に東京中央郵便局の郵便部に中途採用された私も身に覚えがある。中郵の場合は、繰り出すのは神田の居酒屋街であることが多かったけれど。
 本書の優れた点の一つは、闘いばかりではないこうした日常がこなれた筆致で描きこまれているところにもあるのではないだろうか。懲戒免職となった後の、職場に戻りたいという思いが、それだからひしと伝わってくる。

 全逓に加入したのは1971年の春、ストライキを初めて体験するのは72年の年末だ。公労法が公務員の争議行為を禁じている下で、当時はまだストライキと公然とは言えず、「一斉休暇戦術」と呼んだ。組合員が同じ日に一斉に休暇を取るのである。もちろん当局はそれを認めないから実質的にはストライキだ。全逓が公然とストライキと称してスト権確立のための一票投票を実施するのは翌年の1973年からだ。

 後日のことを述べれば、スト権一票投票が行われたのもそれから数年間だった。スト権スト(75年)、続く越年闘争(78~9年)の敗北を経て、労使協調路線を濃くしていく中で行われなくなっていく。郵政が民営化された今日、郵政労働者はもう公務員ではないから法の上でもストをする権利を持つが、今日のJP労組がスト権一票投票をやるなど絶えて聞かない。少数労組の郵政ユニオンは果敢に春闘ストライキを行なっている。

 郵政労使の欺瞞

 そうして1978年の越年闘争を迎える。池田さんは当時、全逓赤羽支部青年部の常任委員であった。「争議行為の意思決定に参画」はしないが、闘争指令が下りれば先頭に立つという位置である。とことんブツ(郵便物)を溜めた。赤羽局では池田さんを含めて4人が懲戒免職になった。いずれも若者たちだ。

 初めは全逓本部が取り組んだ反処分闘争は人事院での公平審査を経て、1986年9月、東京地裁での処分取り消しを求める民事裁判が始まった。

 ところが、処分から10年ほどが経ったころ、郵政省再受験という話が持ち上がる。全逓労組が4.28免職処分取り消しを求める訴訟を取り下げることと引き換えに、郵政省は40歳以下の被免職者に郵政省再受験を通して職場復帰への道を開く、という合意ができたと言われるものである。じつは郵政省はそんな確約は与えておらず、4.28反処分闘争の幕を早く引きたい全逓だけがそう早飲み込みをした。

 結果は、1991年2月24日に行われた東京郵政局外務職員の採用試験(採用予定100人に応募は2019人)を受験した被免職者14名は全員が不合格だった。いっぽう全逓は合否発表を待たず、発表五日前の3月11日には受験者からの訴訟取り下げ書を裁判所に提出した。
 池田さんは38歳になっていた。14人の一人として受験する。当時の心境はこう書かれている。

「もちろん私は、あの郵政省が一度切った<戦犯>を戻すだろうか、という疑念を抱いたものの、郵便局復帰という幻想の方が勝っていた」(109ページ)。

「明確な合格の確証のない大きなリスクを伴う決断ではあったが、ここはあえて<騙すなら騙されてみよう>という居直った気持ちになったのだった。この一年あまり、裁判傍聴をめぐり、地区役員から日常的な恫喝と数々のいやがらせ(賃金カット、定昇停止、配置換え)を受けてきた犠救出向という<飼い殺し>の身分からついに脱出できる道が開けたと、すがりつくような気持ちだったかもしれない。もし不合格と出たら本部はどう出るか、わが身を持って、その真偽を試すしかないと決断したのである。一%でも戻れる可能性があったらそれに賭けてみよう」(111ページ)。
 だが、仲間たちは反対する。
「受験するつもりだと仲間に伝えると激しいブーイングが起こった。(東京)南部地区ではすでに二人の<受験有資格者>が訴訟取り下げ拒否・裁判継続を表明しており、(90年)一〇月二日には都内で彼らを支援する反処分集会が一一〇人を集めて開かれていた。『伝送便』の編集長になっていた私が、まさか本部の軍門に降り、裁判を取り下げて受験すると周囲は思わなかったのかもしれない。すでに反連合の旗色を鮮明に打ち出し、独立労組(八労組)の道を歩み出していた<郵政全協>(郵政労働者全国協議会)は『伝送便グループ』とも呼ばれ、四・二八反処分の闘いは、全逓右傾化に抗する郵政全協の闘いの一つのシンボルとなりつつあった。・・・その<当該>であるべき私が本部方針に従う事は、とうてい容認することはできないというのが首都圏の雰囲気だった」(111~112ページ)。

 私は当時『伝送便』の職場における一読者であって、活動家グループからは距離を置いていたから、そのとき池田さんを取り巻いていた雰囲気を肌身では知らない。しかし、こういうところがいかにも池田さんらしいと思う。周囲がどうあれ、自分が納得する道を進むのである。運動家でありながら、それより現場の労働者でいたい。試行錯誤がまた運動家としての彼を非凡にする。全逓本部の方針の下でやるだけのことはやった上で、それでダメなら闘いを続けるまで。

 4月25日に開催された反処分指導委員会が「被免職者の裁判闘争と再採用については断念する」「6月末をもって犠救適用を終了する」という方針を決定するや、当時水道橋にあった全逓本部の入り口前で池田さんは4日間のハンストを決行する(5月13~16日)。<全逓本部は4.28被免職者に謝罪せよ!>という横断幕を背に、一人で始めたハンストだが、周りが彼を一人にはしておかなかった。再受験を冷ややかに見ていた人も含めて仲間たちが次々応援に駆けつけ、ときには50人を超す仲間に支えられながらハンストは貫徹される。いったんは起きかけたブーイングが以前に増す信頼に変わっていく。
 反処分指導委員会の翌日、4月26日に南部労政会館で245人が結集して開催された反処分集会には受験者として唯一人登壇した。再受験は6人が拒否しており、共に闘う決意を表明する。結局この6人と池田さんとの7人がその後10数年の闘いを経て2007年に職場復帰を勝ち取るのである。

 被曝労働者としても

 職場復帰を果たしたとき池田さんは54歳になっていた。初出勤の朝、通用門をくぐる前に激励にかけつけた仲間たちに挨拶して<今から28年ぶりに出勤します>と言うと「いつも仏頂面の労担も何と目頭を押さえていた!」(197ページ)。局長室で辞令を受けるとき<何か一言ありませんか>と質したら局長は<最高裁判決を厳正に受け止めます>と消え入るような声。しかし謝罪の言葉はなかった。職場である集配営業課では挨拶に80人余りの同僚から拍手が沸き起こった。

 とはいえ離れていた28年の間に労働環境は激変していた。かつては自転車で配達していたから、配達に出た初日も赤い自転車に乗った。ところが配達地域に着く途中で息が上がってしまう。郵便物の量ははるかに増えた一方、50代なかばとなれば体力は落ちている。翌日からは50ccの原付バイクを使うようになった。

 余談ながら、それから10数年たった今日、配達現場は原付バイクでも間に合わなくなっているようである。『労働者文学』の第90号(2021年12月刊)に『カンナナの坂』という短編小説が掲載されている。執筆した三上広昭さんも都内の郵便局で働いてきた集配労働者OBだ。この作品に登場する非正規雇用の集配労働者・岩垂の配達区域は環状7号線が通っており、題名の<カンナナの坂>とは環状7号線と交差する道路の坂のことである。その坂を登るのに50ccのバイクでは苦しいのである。正規雇用は125ccに乗っている。ところが岩垂は、人員が少ない日曜出勤のときでもない限りは125ccに乗れない。50ccのバイクはここでは郵政における非正規差別を象徴している。

 2020年10月、郵政における夏期冬期休暇・病気休暇・扶養手当・年末始手当・年始祝日休での非正規差別について最高裁は下級審の判断を覆し、「労働条件の相違は、労働契約法20条にいう不合理と認められる」として非正規雇用労働者である原告(郵政ユニオン組合員)の主張を支持した。闘ってきたからこその成果であるのは間違いない。ただ、この最高裁判決を「『憲法の番人』としての矜持を示した」と池田さんが書かれる(193ページ)のは、寛大な評価のように私には思われる。諸手当において是正が進んでも、郵政においては正規雇用労働者と非正規雇用労働者の間の基本賃金の格差が大きく、労働契約法20条も最高裁もそこには踏み込んでいないからだ。ともあれ非正規差別をなくすことは、郵政のみならず日本の労働運動にとって最大の課題の一つである。
 ところで現在の池田さんにはもう一つの顔がある。原発関連労働者ユニオン書記長としてのそれである。彼は2013年3月に赤羽郵便局を定年退職した後、翌14年2月から5月まで福島の浪江町で除染作業に従事、さらに同年8月から翌15年4月まで福島第一原発構内で廃炉に向けた事故収束作業にたずさわった。その体験をふまえて被曝労働者の安全衛生などのために尽力している。池田さん自身フクイチでの廃炉作業従事中に被曝した。その日々は『福島原発作業員の記』(池田実著、八月書館、2016年2月刊)に詳しい。福島で働いていたとき詠んだ短歌は朝日新聞の【歌壇】に何度も採歌された。そんなこと聞いていなかった私は、当時日曜の或る朝【歌壇】に彼の名前を見てびっくりしたものだ。除染や廃炉作業のことを詠んでおり、福島からとなっているから、間違いなくあの池田さんだ!と。

 除染から廃炉作業に身を投じやがて福島がふるさとになる

 もっとも三十一文字が「天から降りてくる」のは福島に居るときに限られるそうで、普段の彼は作歌に励むことはないようだ。

 さて本書に収められた文章は月刊『伝送便』誌の2018年2月号から22年5月号まで46回にわたり連載された。連載中から共感が静かにひろがっているのを感じたが、郵政職場の交流誌である『伝送便』の読者は限られている。一冊にまとめられたことによって広く人々の目に留まることができるのを、郵政労働運動における仲間として友人として喜ぶ。ウラ表紙に赤い郵便バイクのイラストを描いた白井次郎さんも静岡県在住の郵便労働者OBである。池田さんの闘いは、こうした全国の仲間たちに支えられている。

 『郵政労使に問う ~職場復帰への戦いの軌跡~』池田実著、すいれん舎
 定価1.760円(税込) 2022年8月25日 第一刷発行

 購入法については『伝送便』ホームページをご覧ください。

 https://www.densobin.net/

 



短歌「同期会」・中村昇

同期会

 

秋半ば一年おきの同期会まだ生きてると挨拶をする

少年が骨壺抱いて歩みおりまだ片付かぬ瓦礫の脇に

ブランコの下のくぼみの懐かしく子供いくたり足に蹴りたる

にぎやかな卓球場の午後にいておみな一球ごとに声だす

地球から零れ落ちるということは七十億人まさかあるまい

百円でリンゴ一つが買えぬまま景気の悪く秋は深まる

柔らかきモモの質感描かれて杉本真理の絵筆はたくみ

歌いつつ体激しく動かすは若さの持てる特権ならむ

知らなけりゃ知らないままに過ぎゆきて人生意外に軽きものあり

めんつゆとめんつゆのもとコンビニの棚の前にて違いに迷う

欠陥の原発商品輸出するその神経を疑いており

武士道は死ぬこと也といいたるは誰にしあるか名言ならず

残される時間の嵩は知らねども死ぬということ忘れて生きる

それとなく別れのことは言いてきぬ先の命の見えぬこの頃

他愛なく堅牢設備崩れ落ち原発事故の罪は重かり

隣席に座るおみなのバックには外国たばこ潜みていたり

待たずともいつかその日はやってきて時間に止まることはなかりき

憲法をかえようとする動きあり被災の陰に隠れしままに

秒針の動くかすかの音のして目覚まし時計深夜休まず

エッセイ「テニアンふたたび〝『玉砕』の島を生きて〟を観て」・穂坂晴子

      
テニアンふたたび 「『玉砕』の島を生きて」を観て 
                      穂坂晴子
    
 コロナ感染に押されつくした今年の夏も終わろうとしているある日、子どもの日本語関係のweb「子どもメール」に知人から1通のメールが届いた。8/28、太田直子監督NHKETV特集「玉砕」」の島を生きてーテニアン 日本人移民の記録―の案内だった。テニアンーその名に心が動いた。大急ぎでTVをつけ、友人たちに夜中だが、、と知らせた。日本から2500キロ離れた南洋の島テニアンー1945年、そこで何があったか。生き残った人たちはどう生き抜いたのか。

 映像は2002年のサイパンでの慰霊祭から始まる。テニアン島南端のカロリナス台地の絶壁にある慰霊碑を訪づれる人たちの姿も映し出された。
 1945年7月、第2次世界大戦最後の日本での「決戦場」、米軍の凄まじい艦砲射撃の下、多くの日本人、住民12000人もが巻きこまれ、死んだ。まさに最後の「玉砕」の島だった。「玉砕」という美名、そして「戦陣訓」の下、どれだけの人が犠牲になったか。その強いられた集団自決から生き延びた方たちの証言を太田直子監督は20年にわたって取材し、撮り続け、今回、初めての放送となった。何があったのか。集団自決はどうしておこったのか。

 当時の国策でのテニアンへの募集に日々の暮らしに困窮する農民は応じ、移住した。映像は2003年、サイパン・テニアンで軍民協定の上、広く糖業を営んでいた南洋興発の懇親会を映し出す。そこに参加した小檜山藤子さんに取材を始めた監督は当時を知る母ミサさんの証言にとたどり着く。ミサさんが話してくれるまでにはどれだけの壁があり、葛藤をくりかえしたことか。太田監督が初めてサイパンで取材を始めたとき、語る人はいなかったようだ。「記憶は消えないよ。そんなこと聞くのは野暮だ」「思い出したくない」「地獄だった」あまりにも壮絶な体験ゆえに生き残った方からの取材は並大抵ではなかっただろう。淡々と話したミサさんの内容のすさまじさに慄いた。初めて見る映像に釘ずけになり、目を見開く。20年に亘って生存者の方たちとの旅に同行し、交流を深めたからこそ、胸の内の記憶の塊を溶かし、語ってくれたのだろう。言葉の数々に心を震わす。そしてその苦しみは今も続く。まさに長年にわたって生存者の生と死の記録である。良く取材し、撮ってくださったと監督の長年のご苦労と熱意と温かく厳しい眼差しへ思いを込めて拍手を送りたいと思った。
 1928年。テニアン移民募集でミサさんはテニアンに渡る。最後の猛艦砲射撃の下、洞くつに逃げ込んだ住民の居場所に逃げこんできた日本兵は捕虜になるのは恥だと集団自決を迫り、手りゅう弾を渡した。小さい子は殺せと一人ひとりに指示した。手りゅう弾は、一つしかなく死ねないこどもには親が手を掛け、そのあと自決したという。あの日本兵さえいなかったら、、ミサさんは語る。5人の子供と祖母を抱え逃げ惑う。水がなく自分の小便まで飲み、子どもたちにも飲ませた。
 同じ証言を聴くことが出来た二瓶さん、集団自決に迫られた時、お前に殺されたいという母親に銃を向けた。1度めでは死ねず2度目に頭を撃った。妹は今度は自分の番だと母の死んだ場に座る。兄ちゃん、水が飲みたいと言ったという。二瓶さんは、最後の願いを聞いて、引き金を引いた。
 南洋興発の義勇隊に入った有元さんは自決しきれずに苦しむ仲間の兵隊の首にダイナマイトを仕掛け、殺したという。自分も自決しようとしたところを米軍につかまって生き延びた。しかし、今も手に掛けた仲間の顔が忘れられず亡霊のように出てきて、今も苦しむという。自分のしたことは今だったら殺人にあたると。

 ミサさんはその後日本に戻ったあとも体験を語れなかった。テニアンに行くことも拒んだ。親が子を手に掛けたなどと決して言えないと。帰ってからもよく自分だけ帰ってきたと母にも言われ苦しみ続けた。
 2017年、ミサさん逝去後、娘の藤子さんは、小さな碑をカロリナス岬に建てた。そして今まで語っていないことを初めて監督に語ったという。集団自決の時、母が殺せなかった7歳の弟を母に頼まれて藤子さんは手に掛けた。今も見開いた弟の目を忘れられないと言う。何ということだろう。母は12歳の娘に託した苦しさを死ぬまで忘れなかっただろう。藤子さんも13年の間話せなかった。戦争はこういうものだと言ってこいと言われたと語る藤子さんの世代を超えて一生続く深い傷跡に、言葉が出ない。

 映像を見て思い出した。故石上正夫氏が呼びかけた三多摩9条連主催の「鎮魂・不戦の旅」に何度かテニアン島を訪れている。
 2009年、そのテニアン島の現地で監督と会っていることに気づいた。高齢化し、これが最後と言っていた沖縄の慰霊団と訪れていた。沖縄の作家目取真俊さんも来ていたようだ。「沖縄と同じだ」と言っていた。
 テニアンー私の中で記憶がよみがえり、まさに今のこととして疼きだす。「労文」に加入したころ、初めて書いたのがテニアンのことだった。遺骨収集の日本人が引き上げたあとも遺骨を拾い続けたチャモロ人、マニエルさん、なぜと聞くと17歳の時、日本兵として一緒に戦った。仲間がまだジャングルに眠ってるなんて可哀そうだと語った。そして、そのマニエルさんはジャングルに入ったまま、行方不明になり、いまだに遺体は見つからない。
 私はテニアンに行く度、「労文」に報告記事を書いた。テニアンへの便も少なくなり、時間も費用も機会もなく、行けなくなったから、情報も入らないからと、最近は書けなかった。でも、ずっと気になっていた。現地の高校で日本語を教えていた日本人の先生からのメールが届いた。最近のテニアンの様子を知りたかった。やはり、テニアンは私にとって忘れられない場だと気づく。今やることは、、と思い至った。

 すぐ、太田監督と連絡を取った。どうしてもお会いしたかった。そして、運よくお会いすることが出来た。テニアンで交流した人たち、遺族の方、懐かしく辛い場所、南洋興発のこと、石上さんのこともよくご存知だった。どうしてテニアンを撮ったのか。なぜ今なのか、話は尽きなかった。
 早くお会いしたかったのは本土に戻っていた本人以外の親族10人が集団自決で亡くなり、石上さんとも同行し自決の場を探し当てた菊池敦元さんが去年入院したと聞いたこともあった。紹介しようとしていた菊池さんを監督は取材していた。そして今年、亡くなったことも初めて知った。家族でたった一人しか生き残れなかった菊池さんの悲しみと無念さをを思い巡らす。石上さんのお葬式でお会いしたのが最後だった。

 無性に石上さんの著書を読まなくてはという思いに駆られた。「見捨てられた南の島」を取り出して読んだ。最後の応募だと石上さんが「週刊金曜日」に応募した作品だ。ドキュメント部門の優秀賞を取った。
 当時、東京空襲を調べ、追っていた石上さんが東京空襲にそして広島・長崎に向かったB29の出発地点だったテニアンを初めて訪れたのが1976年、その時、それから長い付き合いとなる当時の市長メンディオラ氏は「どうしてテニアンには慰霊碑がないのですか。たくさんの人が死んだテニアンを忘れないで下さい」と言い、降ってきた雨を「仏様の涙です」と流ちょうな日本語で話した。それから石上さんたちは帰国後、カンパ活動をし、1978年、追い詰められた人たちが身を投げた絶壁のカロリナス岬に「鎮魂不戦乃碑」を建てた。それ以来、30回以上も石上さんがテニアンを訪れていた理由が重くのしかかってきた。
 石上さんは当時民間ではなかなか集団自決の記録がない中、追求し、当時の大本営がまさに下した判断、見放されて放棄されてサイパン・テニアンのことを当時の大本営、天皇へ怒りをもって暴いた。著書「南の島の悲劇」見捨てられた楽園の島」などに著されている。同時に自分たちの足で遺骨がないまま葬り去られていた菊池家の遺骨を集団自決した場所を探し、2005年、探しあてた。同行した三多摩9条連の私たちも祈り、そこに鎮魂碑を建てた。

 そして今思う。2021年に、太田監督が作ったこの作品の初めての放映を。コロナ禍で、自粛ムードが高まり、とんでもないことが普通のこととして通る。国会は憲法を守らない、嘘、詭弁がまかり通る、こういうものだと、国民の中で不審と諦観、無関心が普通のことになる。命の尊さが平気で無視される。私たちはどう見るのか、2021年に生きる者として。 
 毎年テニアンのメモリアルパークで行われていたテニアンと広島を結ぶ8/6の平和イベントはなかったとのこと、コロナ禍だからかもしれないが、その後どうなってるのか。基地では日米の合同演習が増えているんだろう。交流した高校生たちはどうしているのか、あのヤシの木は、空港で私たちを迎えてくれたあの血を吸って赤くなったというテニアン桜は。もう1度行きたいと思った。

 振り返ってみる。石上さんが一番追求していたこと、集団自決とはなんだったのか、集団自決の場を探し、実際にテニアンを綿密な調査で歩きついに集団自決の場を見つけた。30回もテニアンに行っていた思いは現地の人の話を聞き、その実態を知ったからだと書かれていた。そしてそこに至ったのは大本営が死にもの狂いで戦っていた兵士たちを見放し、「戦陣訓」で殺したということ、向かうべきはどこなのか、何年もの行動を突き動かしていたものを私たちは今の時代を見て知り継ぐべきだと思った。

 練馬に住む小岩昌子さんと会った。石上さんが「高校生のためのテニアン展」を開いたとき、目にした名前だった。それからテニアンの話を聴く機会もあった。太田監督に紹介したい一人だった。小学校などで風船爆弾を作り続けてきたことを語ってきた数少ない戦争体験を語る方で、で闘い、石上さんとも同じ教職で闘い、勉強しながらずっとテニアンに行き続けていたという。地域の9条の会の講演で話したこともある。私のテニアンの妹が来たと喜んでくれて、私もテニアンのことを少し語った。

 秋も深まってきたある日、待ち合わせた太田監督と一緒に小岩さんに話を聴いた。幼年期のお父さんやお母さんの教育、当時の学校のこと、浅草に行き戦災孤児を助けていたこと、テニアンで見たこと、その後のこと、94歳の小柄な体にリュックの中にたくさんの本と資料、数々の写真をいとおしむように見せてくださった。そして最後に言った、絶対に戦争はいけない。ミサさんと石上さんと同じ言葉だ、

 家に帰ると菊池さんの今年の年賀欠礼のハガキが届いていた。娘さんの言葉で「平和の闘いは続けます」とあった。太田監督は定時制高校を撮った「月あかりの下で」の中で、廃校になった今もその定時制高校での生徒の生きる場を作っていた教育を今記録し、蘇らせなくては。今伝えなくては。それが子供たちが置かれているますます悪化していく状況下で、今の行政への自分のリベンジだと。私も反芻する。   
 あんなに強烈だった石上さんが亡くなったあと私たちは何を引き継ぐのかと、あがく。今年は、太田監督、小岩さんとの出会いもあった。まさに今与えられた導きの糸のような気もしてくる。コロナ禍の中での自粛ムードにファシズムに似た時代の空気を感じるものがある。疼きは使命かもしれないと思ってみる。身体的限界を覚えつつも、危ない時代に与したくない。不条理とは闘わなくてはいけないという魂が持ち上がる。映像を見て、話を聴いて、記録を読み直し、歴史の一端に立っているんだという思いを刻む。迷いつつも、立ち向かうべきは、こんなひどいことが行われたのは歴史的事実であり、教科書にも載らない、不都合なことは忘れ去せられようとしているまぎれもない私たちが生きている今だ。
 太田監督は映像の最後に「取材の旅は今も続いている」と語った。何をするかはそれぞれの場がある。使命というには、おこがましいが、私も続けたい。記していきたいと思う。行動を伴って。ここまで書くには、ちょっとある道のりだったけれど。
     

戦争を歴史の中に 
閉じ込めてはならない
戦争は常に私たちの
生活の中に存在する

戦死者を数字に 
おきかえてはならない
戦死者は尊い命を奪われ 
一人ひとりの人生があった
 
(敗戦65年目の夏 石上正夫)より

 

 

 

小説「新・狂人日記」・黄 英治

新・狂人日記

 

      黄 英治  (ファン ヨンチ)

 

 ぼくは、あなた、です――。
 ぼくは五年生のとき、カエルの飼育に熱中して、頭と躰の隅々に蠱毒(こどく)を行き渡らせた。それは偶然見てしまった、あの光景に魅せられたせいだった。
 田植えが終わった近くの田んぼで、オタマジャクシ二十数匹をタモですくうことができた。ぼくは大喜びで空き缶に移して家に持ち帰った。ちょうどいいことに数日前、玄関のげた箱の上にあるプラスチック製の小さな水槽の金魚が死に絶えていた。ぼくはそこに新しい水を張ってオタマジャクシを放した。まん丸の小さな眼と、おちょぼ口がついた黒くて楕円形の頭。笹の葉の形をした長い尾を動かして、それぞれが勝手気ままにゆらゆらと泳ぐ。その姿は愛嬌があって、見ていて飽きなかった。母が教えてくれたので、鰹節を細かくして与えると、待ちかねていたように一斉に水面に群がって食べ続ける。最初にいれた鰹節は瞬く間に無くなったので、もう一度与えた。こんども盛んに食べていたが、やがて満足したのか、水底へ降りてあまり動かなくなった。食べ残された鰹節は、水を吸ってボタン雪のように水中を舞っていく。頭の上や口元に落ちてきた鰹節に、カエルの子どもたちは石になったように無関心だった。それでぼくは観察に飽きてしまい、居間へ行ってテレビをつけた。夕飯を食べ、風呂に入ると、オタマジャクシのことはどこかに行ってしまっていた。布団にもぐりこみそのまま眠りについてしまった。
 明け方の夢だったのだろう、オタマジャクシたちが「お腹が空いたよ」と騒いでいた。餌をあげなきゃ、と追われるように目覚めたことを記憶している。水槽の水は薄茶に濁っていて、嫌な臭いを立ち昇らせていた。中の生き物は半分になっていた。水面には漣(さざなみ)が立ち、いままさに喰われている三日月型に欠けた頭の奴に、オタマジャクシが群がっていた。水底には喰い残された笹形の尻尾が、ふやけてかさを増した鰹節と一緒に漂っている。餌が足りないんじゃない! 新鮮な肉がうまいんだ! ぼくは恐る恐る三日月頭を人差し指でつついた。ぱっと楕円の頭の群れが散る。喰われた頭の断面に赤黒い肉と白い骨らしきものが見えた。そこから黒い木綿糸のような腸が、だらりと垂れ下がっている。と、ひくひくと口が動いた。三日月頭はまだ生きていた。辛うじて頭につながっている尻尾が痙攣したように水を掻いて、水槽の隅へ移動した。いったん逃げた奴らが、またそいつに群がった。ぼくの頭はおぞましさに沸騰しながらも、ある毒が煮つまる感じがしていた。
 尻尾が頭から喰い千切られて沈み始めた。まだ肉がついているそれに二、三匹がむしゃぶりつく。三日月頭がどんどん欠けていく――歯がカチカチ鳴る音。喰いつくこいつらの? 怯えるぼくの? それが合図だった。一番強い奴が、どんなカエルになるのか見てみたい! そんな思いが興奮のなかで閃く。そのときもう、弱く哀れな犠牲者は、喰いつくされていた。
 母がこれを見たら、捨てろと言うに決まっている。ぼくは外の水道で、共喰いの残骸と鰹節を流して水を替え、水槽を部屋に持ち帰って机の上に置くことにした。生き残っている十二匹のオタマジャクシたちは、血の臭いが失せた澄んだ水底で、黒豆のようにじっとしていた。
 それから二日間、水槽は平和だった。オタマジャクシたちは適当な距離を保ってのんびりと動き回っていた。でも餌を与えていないので、楕円の頭が少ししぼんでいるように見える。このままでは飢えて死んでしまうかもしれない。朝になったら鰹節をやろう、と決めて布団に入った。
 水音がした。カチカチと歯の鳴る音もする。眼を開けようとしたが、どうしても開けられない。躰を起こそうにも、胸にぬらりとした柔らかく生臭いもの――それは巨大化したオタマジャクシに違いない――が押しつけられていて、動けない。夢だ、夢だ、夢だ……。
 朝だった。水槽は? 血で薄く朱に濁った水の底に、喰い残された尻尾が四本。八匹に減ったオタマジャクシのうち、二匹が他に比べて一・五倍ぐらいの大きさになっていた。それを見て、ぼくには次に起こる光景が、容易に想像できた。できることなら、それをこの眼で見たいと願った。水を替えて濁りを取ると平和になってしまうようだ。尻尾だけをすくって捨てた。朝食を急いで済ませ、登校時間のぎりぎりまで水槽を見続けた。だが、ぼくが見たいことは始まらなかった。
学校で水槽の話はしなかった。共喰いを恐れながら楽しんでいることは、誰にも言えない。ぼくはひょうきんで、勉強もできる、いい奴。そうみんなに思われている。だから、これは秘密にしておかなければならない。人知れぬ恥ずかしさ、暴露されない罪を、ぼくはこれで身につけていたかも知れなかった。でも、とぼくは思っていた。ぼくの水槽と、この教室はそっくりだ、と。すぐに怒鳴りちらす担任の社会科教師は、社会主義国のソ連や中国が理想だと言った。強いものが生き残る、とも教えた。勉強ができない子どもたちを露骨に差別していた。クラスが学年トップの平均点を維持するために、統一テストの日は、小児麻痺の女子と、川向うから来る男子、いつもニンニク臭い息を吐く鼻たれ小僧を欠席させた、という噂がたっていた。だけど、ぼくらはこの担任が好きだった。この先生のおかげで学年一位の称号を誇れるのだ。あっ! ぼくと知弘君は、水槽の頭が大きくなったオタマジャクシに似ている。似てはいるが、はっきりしているのは、ぼくはどうしても知弘君にはかなわないことだ……。
 水槽の水はさらに濁っていた。頭の大きな二匹は、最後の獲物にかじりついていた。ぼくは自分が、ときに冷たく光る担任の眼をしていると思った。争わせることの楽しさ、それをあやつる面白さ。惨めにやられる奴の哀れさが、言い知れぬ快感をもたらすことの不思議さ。ぼくはこうなるように仕向け、思い通りになっていることに満足していた。でも、この光景も少し見慣れたものになってきていた。最初のときほどの興奮はなくなった。ぼくは冷静に光景を観察していた。
 カチカチと喰われていく獲物から血が煙のように流れている。ふたつの楕円が、黒の半円をやがて三日月型にした。喰っている奴の少し大きい方をトモヒロと名づけた。トモヒロが盛んに尻尾を動かして獲物を独り占めしようとしている。そいつの胴体と尻尾のつけ根に、短い足が生えてきていた。少し小さい方は、ボクになるが、そいつにもやがて足になる突起が見えている。まだ足の形にはなっていない。次の勝負が見えている気がした。まるで、現実のぼくと知弘君のように……。

 トモヒロが獲物からボクを引き離すことに成功した。ボクは尻尾を必死に振って追いすがる。水槽の壁に阻まれて獲物は行き場を失った。ボクはまた獲物にありつくことができた。カチカチカチ……喰うのに理由はない。喰うことがすべて。眼の前のものを喰う。ただ、それだけ――。ボクに独餐を邪魔されたトモヒロが獲物から離れた。満足したのか? いや違った。少し潜って躰を反転させたトモヒロは、凄まじい勢いでボクに突進した。ボクの躰の半分ほどが水の上に出た。すでに息絶えている獲物は、突発した津波で別の隅に流れていく。それをボクもトモヒロも追わない。ああ! ボクが躰をくねらせてもがく。トモヒロがわずかに生えているボクの足に喰らいついている! 鮮やかな赤い煙が、水の中に漂い始めた。
 スタンドに照らされた水槽の底に、ボクの尻尾が揺れている。いつ灯りをつけたのか憶えていない。トモヒロの最初の攻撃が始まったとき、部屋はまだ明るかった。誰かがいる気配がして振り向く。誰もいない。部屋の隅の闇がいつもより濃く見えた。身震いした。初夏の長い夕暮れは終わっていた。激しく争うのかと思っていたが、決着はあっけなかった。ボクはトモヒロに抵抗らしい抵抗もせず、もう片方の足を喰われると、後は観念したように、なされるがまま、しかし、その口を苦しげにパクパクさせながら、カチカチカチと腹の方から喰われていった。口が消え、眼が喰われた。トモヒロがバフリとなにかを吐き出した。小さなどす黒い塊。その中のふたつの点が光を反射した。眼の玉のようだった。水はますます濁りを増した。北斗七星の柄杓の形に喰われたボクは水底に沈み、笹の葉に仕上げられた。トモヒロは石と化した。

 見届けたぼくは、トモヒロに怖れをなした。この水槽で起こったことは、教室で起こることを予言している。ぼくはいずれ知弘君にやられる。水槽の共喰いを演出したぼくのように、担任は、ぼくがやられるのを笑いながら観察するだろう。
 水槽から腐ったドブの臭いが流れてきた。空気が動いた? 誰かいる? 誰もいない! 耳をすますと、居間のテレビの声が聞こえた。少し前、母が帰っているのか、と聞いてきたので、宿題している、と返事したはずだ。違う、誰かじゃない。見届ける前のぼくと、見届けたぼくという、まったく別のぼくがいる。――ぼくはオタマジャクシじゃない。だまってやられない。この運命をくつがえす手立てがあるはずだ。ぼくは、毒がまわったように濁った水の中で、まばたきしないトモヒロの眼と闘いながら、頭の中をまさぐった。

 知弘君が学校を去ったのは、それから十日後のことだ。ホームルーム後の実験のための理科室への移動は、男子の間でいつも競争になる。教室の授業で指定された実験の準備は、ぼくたちがすることになっていた。新しい実験道具と、古ぼけた道具が混在している棚から、グループで使ういい道具を確保するためだった。二階の教室から、一階にある理科室へ。教室を出るときは担任の眼があるから競歩だ。だが、階段にたどり着くと、みんなは三、四段降りたところから踊場へジャンプする。ぼくはその瞬間を狙っていた。いつものように三番手ぐらいになった知弘君の背後に、ぼくは位置を定めた。そして、斜め後ろあたりに誰かがつくのに注意を払った。知弘君が飛んだ。次は、ぼくが飛ぶタイミングだが、わずかにテンポ遅らせ、後ろの奴が飛ぶのと同時に踏み切る。ぼくらは宙で交錯し、バランスを崩す。決めていた通りに大声をあげた。着地していた知弘君がそれに気を取られ一瞬立ちつくした。眼と眼が合った。知弘君は、逃げようと右足を踏み出したが、残っている左足の上に、ぼくらはのしかかった。彼は足首を複雑骨折しただけでなく、左側頭部を壁に激しく打ちつけて意識を失った。ぼくは腹部、両肘と両膝の軽い打撲。それで学校を休むこともなかった。知弘君はそのときのケガで脳にも後遺症が残り、このクラスに戻ることなく、養護学校へ転校していった。これは、最初から最後まで事故として処理され、理科室への競争が厳しく禁止されただけだった。ぼくは自分の計画をおくびにも出さなかった。だが、自分のしでかしたことの重大さに激しく慄き続けてもいた。ぼくは、知弘君がいなくなったクラスで、自然にトモヒロになった。

 仲間を喰いつくした後、鰹節を食べて変態するトモヒロは、日ごとにカエルの特徴を備えていった。カエルに近づくにつれて鰹節を食べなくなったトモヒロの餌をどうするか? これを学習図鑑で調べていて、トモヒロがトノサマガエルだということがわかった。そして、カエルになると生餌しか食べなくなるという難題が突きつけられた。だが調べるうちに、飼育の注意事項として、トノサマガエルは別種の小さなカエルと一緒には飼えない。共喰いするから、という記述に遭遇した。クソガエルと罵られ、ぼくたちの大量捕獲と虐殺の対象だったツチガエルは、畦道を一回りすれば、いくらでも捕まえられた。ぼくは、カエル飼育用の格子ふたつきの水槽を買ってきてトモヒロを移した。ほどなくカエルに完全変態したトモヒロは、ツチガエルという同族を喰ってどんどん大きくなっていった。トノサマガエルの特徴であるはずの、後ろ肢で跳ねることをほとんどしないトモヒロは、四つの足で這い回り、凝っと身構えると、眼をぐっと中空へ見上げて、ぼくを睨んだ。ぼくはトモヒロが放出する得体の知れないオーラにぞっとしながらも、恍惚となった。ツチガエルを二、三匹いれる。するとトモヒロは哀れな同族に視線を移す。最初はパニックで飛び跳ねていた生贄たちは、トモヒロの魔性に引き寄せられるようにそばへ跳ねていき、丸呑みにされるのだった。
 トモヒロの飼育のために図書館で本をあさるうち、分類シールがついていない、『殺して育てる飼育法 悪意と深淵――神々の私語』という薄い本に出会い、蠱毒(こどく)のことを知った。蠱毒の原理は共喰いだった。ヘビ、ムカデ、ゲジ、サソリ、トカゲ、ガマガエル、大きくはイヌやネコなどをひとつの容器=蠱毒壺にいれ、本能と飢餓を最大限に煽って共喰いさせる。最後に残った毒虫、毒獣を生きたまま煎じるなどして、毒薬をつくる。これを呪う相手に飲ませたり、塗ったりして害を与え、ついには死にいたらしめる。あるいは、生き残った毒虫、毒獣を神霊として祀る。神霊になった蠱毒の力は、祀る人に憑りつき、思いもかけぬ力を発揮させ、呪う相手を人知れず葬り去ることもできる、というのだ。
 オタマジャクシは蠱毒の例になかった。だが、共喰いの原理は寸分たがわない。トモヒロはぼくの神霊として、勉強机に置かれた水槽の中に祀られているのだ。そして通常の一・五倍はありそうな大きなトノサマガエルとなったトモヒロは、ぼくが与えるクソガエルを毎日喰って、蠱毒の力を蓄え続けている。ぼくは人気のない放課後の図書館の片隅で、胃を強打されたような吐き気を感じた。獣の一瞬の決断のように知弘君に仕掛けたことが、トモヒロに宿った共喰いされたトモヒロの兄弟たち、同族のカエルたちの恨み、怨念が結晶した蠱毒によって突き動かされたものだったことを悟った。われ知らず蠱毒をしていたことに驚き、怯え、慌て、後悔した。どうすれば、蠱毒から逃れられるのか? なにをしたら、呪いが解けるのか? この本に解毒の記述はなかった。最後のページの真ん中に小さく、「ここに書いてあることは、人間が決してしてはならないことなのだ」とだけ記してあった。どうする、どうする、どうする……。

 部屋に入る。飼育箱の中で、トモヒロがのそりと動く。生贄を待っているのだ。ぼくが飼育箱に近づくと、トモヒロはいつものように、ぼくを見あげて凝っと身構えた。ぼくはトモヒロの眼を見ないように水槽を持ち上げた。自転車の前かごに水槽を押し込む。神霊になったトモヒロを殺す勇気はなかった。だから、なるべく遠くへ、遠くへ、遠くへ……。
 家の集落から二百メートルも行くと、田んぼが一帯に広がる。稲の穂ばらみが始まっていた。浅い夕暮れ。稲と刈られた雑草の青臭い匂いの中へ、騒々しくカエルの鳴き声が放たれていた。直線の舗装された農道。その先にある細い川を三本渡った向こうの大川にトモヒロを流すつもりだった。耕運機か軽四輪かに踏みつぶされたカエルの屍をいくつも見た。トモヒロは凝っと動かない。もうすぐ舗装が途切れる。慎重にいかないと。でも、すっかり暗くなってしまうのは怖ろしい。そんな考えが、頭の中で光ったとき、道の脇を流れる水路に堰をつくるための丸石をよけ損なった。前輪が石に乗り上げ、その反動で水槽が農道に投げ出された。ふたが外れ、敷いていた水苔とともにトモヒロが放り出された。トモヒロは裏返ることなく着地した。そして、あっという間に、太くたくましくなった後足で飛び跳ね、稲に覆われた田んぼへ飛び込む水音とともに、消え去った―――。

 ぼくは、トモヒロと別れてからも、トモヒロの眼差しに緊縛され続けた。クラスで、学校で、ぼくは緻密で巧みに内部で争うように仕向け、それで蠱毒をつくった。ぼくの蠱毒とは、弱い者を苛むことを恥と思わない奴のことだ。ぼくはこいつらを使って、さらに大きな諍いをつくる。揚げ句の果てには、精神的な殺しに近いことさえ焚きつけて、さらに強い蠱毒をつくってきたように思う。彼や彼女とは、人生の航路で、それぞれ道を違えたが、ときたま新聞やニュースでそいつらの名前を見ることがあった。その多くは犯罪者としてだったが、ときには、この社会の栄誉を与えられていることもあった。
 そして、ぼくは大学を卒業してすぐに、当時危険視されていた社会運動に従事した。組織の中で指導的な地位をつかむのは、難しいことではなかった。もともと本を読むことは苦ではなかったし、暗記力は人がうらやむほどだった。マルクス・エンゲルス全集とレーニン全集を丸暗記し、その上で蠱毒の原理を応用すればよかったのだ。とはいえ、この蠱毒にまみれた社会を、蠱毒をもって解毒しようと真剣に考えたことに嘘偽りはなかった。だから、全存在をかけて対立セクト幹部の脳天へ、鉄パイプを打ち込め! との指令書を書いたのだった。ただ、ぼくがそれほど大物ではなかったことを思い知らされたのは、相手側のぼくみたいな奴も同じように、ぼくを殺せ! と宣言しており、ぼくの方が奴より早く、脳天に打撃を受けたことによっている。そして気づいてみれば、トモヒロの水槽を操ったぼくのように、ぼくと奴を共喰いさせた、〈神〉の存在――権力の介在があったのだ。
 ぼくはいま独房にいる。この独房が、監獄なのか、病院のものなのか、は判然としない。トモヒロを生み出したこと、知弘君を傷つけたこと、ぼくの頭蓋骨が割られたことで、ぼくは、より明瞭に、この世界の原理を掴まえられた。そして、この独房で激震に揺さぶられ、逃げようもなく放射能を吸わされて、鉛のように重く単純な事実に気づかされた。
〈神〉の瞬(まばた)きほどの時間枠で言うなら、この独房が属する社会の蠱毒の強さは世界に比類がない、ということ。海外に侵略して植民地をつくり、戦争をして焼き、殺し、強姦した人間たちが、その記憶を蒸発させて「私たちは軍部にだまされていたんです」「命令に従っただけなんです」と口を拭い、恥知らずにも加害者から被害者になりすました。濃縮され貯め込まれた蠱毒は、この社会に放出され続けたのだ。ぼくは偶然にトモヒロをつくった、と思っていた。しかし実際は、トモヒロの毒とともに、植民地を喜び、アジアの大陸と島々で悪の限りをつくした〈やさしい庶民〉、「慰安婦」にされた女性たちを蔑み続けてきた社会の蠱毒にさらされて、ぼくは必然的に蠱毒の虜になったのだった。

 ぼくは、あなた、です――。ぼくと、あなたと、地球の原理は、共喰いです。
〈殺人者と被殺人者の世界の絢爛荘厳〉、大義による合法殺人としての戦争と革命、死刑。神の名による宗教戦争とテロ。自己責任で合理化される構造的殺人……。
 人を殺すのがなぜいけないのか? 人々はまずなによりも、生きていかなければならない。生きるためには、なんでしなければならない。
人を殺すのがなぜいけないのか! さあ、答えよ!
 武田泰淳は「英雄豪傑は亡び、国は消え、そして世界だけが持続する」と書いた。だが、この金言も時代の制約からは逃れられない。この金言は二、三発の核爆弾だけがあり、水爆も原発もなかったときのものだ。人間を前提にした、世界の持続はすで危うい。泰淳はまた、「もしも宇宙や社会の因縁がすっかり明らかにされ、人間がその因縁を自分の力で上手に操作できるようになれば、罪悪も、怨恨も、差別もなくなるにちがいない」とも書いた。泰淳よ、〈因縁〉は明らかではないか? 共喰い! それは上手に操作しようもない掟なのだ!
 ぼくは独房で、だれにも伝わらない、また伝える必要もないと判断している、〈神〉というか、なにかそんなものの視点で、世界を凝視する。
 地球という蠱毒壺の、永遠の共喰い連鎖を、断ち切る希望はない。
 汝自身の恥を知れ!
 万物滅亡!

 

(『短編小説集 こわい、こわい』(三一書房、二〇一九年四月)より

 

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